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ザ・ドリフターズ いかりや長介

ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。現在は、グループで活動することはほとんどない。

www.geocities.co.jp

laughy.jp

www.fami-geki.com
  いかりや長介がリーダーに就任した当時は前リーダーの桜井輝夫が個人オーナーとしてメンバーの面倒をみる形をとっていたが、小野ヤスシら4人がドンキーカルテットを結成して脱退、かわって荒井注・高木ブー・仲本工事が加入し新生ドリフに切り替わりその活動が安定すると桜井はドリフの将来を見越してすべての権利を渡辺プロダクションに譲り渡した。
1979年より渡辺プロダクションより分社した「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったため、音楽とはほど遠い存在になったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止してしまったわけではなかった。
これは、高木ブーが日本屈指のウクレレ奏者であることや、CMでいかりや長介がウッドベースを披露したり、加藤茶がドラマーの実力をたびたび番組内で披露していることからもわかることである。
また90年代以降は、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。
2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援に来たことは過去にもたびたびあった) 同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。
だが、いかりや長介亡き今日、ドリフにとってはこれが現時点で歌手として最初で最後の紅白出場となる見通しである。
いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。
そのときの父・小泉純一郎のコメントは「力をつけてもらわないと…」だった。
いかりやとは「金曜エンターテイメント」枠で放送されたドラマで共演している。
以下、雑誌「ミュージックライフ」、いかりや長介著「だめだこりゃ」、高木ブー著「第5の男」、および加藤茶の証言などを基に極力矛盾が少なくなるように整合させた、いかりやが正式リーダーになるまでの経緯を紹介する。
なお、新生ドリフ結成の解釈には、おなじみ5人のメンバーが揃った時と渡辺プロ移籍時の2通りがあるが、本記事ではイザワオフィスの公式発表に従い後者とする。
渡辺プロに移籍し、1965年に綱木が脱退した(新生ドリフメンバー脱退第1号)後の1966年春、メンバーは事務所の先輩ハナ肇に芸名を付けられる。
その後に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」と名乗ることもあった(短期間ながら、初期には「いかりや長一とザ・ドリフターズ」だったこともある)。
初期新生ドリフは、ポスト「クレージーキャッツ」を自負するコミックバンドとしてジャズ喫茶出演やTV出演を行っていた。
当時高校生の志村けんはビートルズ公演の際にドリフの前座を観客として見ていたとする記述が居作の著作などに見られるが、志村本人は否定。
また志村が隠し撮りしたビートルズ公演の写真からも志村が見たのはドリフターズが出演しなかった日であることがわかる。
後述する『大正テレビ寄席』出演の頃からコントに軸足を移すようになる。
この番組で、後のライバルとなるコント55号と出会う この頃から徐々にドリフの人気が高まる。
そして、1967年には映画『なにはなくとも全員集合』で初主演を果たす。
『全員集合』の「ドリフ聖歌隊」でお馴染みのリズムに乗せて早口言葉を言う。
補作詞:いかりや長介となっているが、補作であるのは口伝され続けている早口言葉も歌詞に含まれていることからである。
Diana Ross & Marvin Gayeの"Don't Knock My Love"(1973年)の替え歌である。
2017/10/15(日)
   
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