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ザ・ドリフターズ ビートルズ

ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。現在は、グループで活動することはほとんどない。

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  1966年にはビートルズ日本公演の前座を務めた。
僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴのものとは隔離されていた)。
これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。
なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。
その際、ポールのベースがいかりやのベースにぶつかり疵は付かなかったものの激昂。
何も言うことができずにいたが、後に「疵が付いて欲しかった」と話した。
学習院大学政治経済学部卒業。
東京商工会議所の内定を得ていたが、高木が脱退するギタリスト小山威の後釜として仲本をいかりやに紹介し内定を蹴って1965年1月1日付でドリフ入り。
初期のドリフでは、ギターとロック系ボーカル担当。
ビートルズの前座で「ロング・トール・サリー」のボーカルを取ったのも彼である。
コントでは、「要領のいい、リーダーに媚を売る役」、「内心、何を考えているのか分からない役柄」を演じることが多く、全てのメンバーにしっかり合わせられる器用さがあった。
また、学生時代に体操部で身につけた床運動(マット体操)での軽快な身のこなしも有名だった。
仲本同様、1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検のうえ略式起訴された。
1970年代からビートルズのレコード収集家としてコレクター界では有名で、所有している種類や枚数は海賊盤を含めかなりの数に及び、マニアだと言われている。
自身の番組内にビートルズナンバーをたびたび使用している理由の一つでもある。
高校生の時、ビートルズ武道館公演を観に行ったことをのちに語っている(ただしこの時の前座はドリフではない)。
ドリフメンバー唯一の未婚者で、未だに独身の状態である。
渡辺プロに移籍し、1965年に綱木が脱退した(新生ドリフメンバー脱退第1号)後の1966年春、メンバーは事務所の先輩ハナ肇に芸名を付けられる。
その後に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」と名乗ることもあった(短期間ながら、初期には「いかりや長一とザ・ドリフターズ」だったこともある)。
初期新生ドリフは、ポスト「クレージーキャッツ」を自負するコミックバンドとしてジャズ喫茶出演やTV出演を行っていた。
当時高校生の志村けんはビートルズ公演の際にドリフの前座を観客として見ていたとする記述が居作の著作などに見られるが、志村本人は否定。
また志村が隠し撮りしたビートルズ公演の写真からも志村が見たのはドリフターズが出演しなかった日であることがわかる。
後述する『大正テレビ寄席』出演の頃からコントに軸足を移すようになる。
この番組で、後のライバルとなるコント55号と出会う この頃から徐々にドリフの人気が高まる。
そして、1967年には映画『なにはなくとも全員集合』で初主演を果たす。
いかりやはこのメンバーを急場凌ぎと捉え、いずれ整理しようと自著『だめだこりゃ』に記している。
音楽面に有能なメンバーに去られ、新メンバーは音楽面では劣ると見ていたから(特に荒井は満足にピアノが弾けなかった)である。
しかし、『大正テレビ寄席』の山下武プロデューサーによれば、お笑いの技量はドリフがドンキーを凌いでいたという。
番組としてはもっと出て欲しかったが、諸般の事情(司会の牧伸二がドンキーカルテットと同じ事務所だったこと)により数回の起用に留まり、泣く泣くドリフよりもドンキーを重用していたとのことである。
2017/6/25(日)
   
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