このエントリーをはてなブックマークに追加
Tweet
当サイトについて

◆ 最新芸能人一覧

井上順


オリエンタルラジオ


浜崎あゆみ


橋本環奈


岡田圭右


渡辺麻友


勝俣州和


菅野美穂


>>もっと見る

ザ・ドリフターズ ドラム

ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。現在は、グループで活動することはほとんどない。

www.geocities.co.jp

laughy.jp

www.fami-geki.com
  1966年にはビートルズ日本公演の前座を務めた。
僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、ドリフターズだけは勝手にビートルズと同じステージで演奏してしまった(ただし、加藤のドラムセットはリンゴのものとは隔離されていた)。
これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。
なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。
その際、ポールのベースがいかりやのベースにぶつかり疵は付かなかったものの激昂。
何も言うことができずにいたが、後に「疵が付いて欲しかった」と話した。
1962年メンバー入り。
1964年のドリフ再結成当初では最年少だった。
いかりや没後、現行ドリフでは最も古いメンバー。
ドラムとボケ担当。
志村が東村山音頭でブレイクするまではメンバー内の一番人気であり、いかりやのギャグの落ちの期待を一身にかけられていた。
その期間ドリフを実質的に牽引し、メジャーに押し上げた功労者でもある。
グループ内ではいかりやと衝突することもあったが、メンバーの人間関係の調整役の役割を果たしていた。
いかりやの葬儀の際には弔辞を読んだ。
結成当時のメンバー。
ドラムス担当。
1960年に脱退。
1956年春頃からプレスリー人気が日本にも波及するようになり、カントリーウェスタンバンドの中で、当時最新の音楽だったロカビリーに行くか純粋にカントリーのままで留まるか、路線を巡り合従連衡が起こった。
ロカビリーはドラムが必要だが、カントリーには邪道だと思われていた。
そんな背景の中で、同年秋頃に「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成(参考 )。
名の由来はアメリカのThe Driftersの息子(Sons)という意味からつけたという説とThe Drifting Cowboysから連想してつけたという説がある。
岸部清がリーダー。
1957年2月に山下敬二郎が加入、駐留米兵相手のウエスタン兼ロカビリーバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。
この時の写真(下記メンバー3)→(1957年頃)。
大野と親交のある高木は、いかりやが3代か4代目のリーダーと語っている。
大野が初代とすればいかりやは4代目となる。
1963年、桜井は徐々にライブに出演しないようになるが名目上のリーダーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は実質的なリーダーとして練習の鬼と化した。
また、この時期に碇屋長兵衛という芸名で出ている。
この時の写真(下記メンバー2)→(メンバーの桜井と飯塚の2人が写っていない)1964年夏、碇矢のワンマンぶりに対し小野は一種のクーデターを起こし、吉田、飯塚、猪熊を誘って脱退して、「ドンキーカルテット」を結成する。
当初は加藤も加入したい意向であったが、小野はグループ名を「カルテッド(4人組)」と決めていたことで今さらグループ名を変更しにくいのと当時辛うじて世間に顔が売れていた加藤を残留させれば新たにメンバーを集めてドリフは残せるとの考えから、加藤へ「お前はドリフに残った方がいいのではないか?」と説得した。
また、加藤本人の話では碇矢からも「お前はどうするんだ!!」と凄まれて執拗に残留を求められ、その時の碇矢の顔の迫力により「残ります…」と言わざるを得なかったとされているが、実際は桜井から「加藤、お前はどうするんだ?」と持ちかけられて説得されたという経緯がある。
その他、小野らが正式に脱退を決めていないうちから脱退後の仕事をブッキングしていたのに違和感を覚えた事も、残留を決めた理由の一つだったという 小野らのクーデターのきっかけは、碇矢がコントの練習中に練習に身が入らないメンバーに対して怒り出し「お前らなんか辞めちまえ!」と恫喝した事で小野らは既に脱退メンバーで構成するグループ名を「ドンキーカルテット」と決めており、脱退後の仕事をブッキングしていたことで「はい、仰せの通り辞めさせて頂きます」と言ってあっさり辞める意思を示してしまい、焦った碇矢は「俺が辞めるからお前らはドリフに残ってくれ」と何度も小野らを説得した。
しかし小野らは碇矢がリーダー代行となった当初から音楽よりもコントの練習を重視する姿勢に嫌気が差していて、ドリフが世間に売れ始めてようやくまともな収入を得られるようになったことから仕方なく残っていただけであり既にドンキーとしての仕事を始める直前であったことから結局脱退する運びとなった。
騒動の責任を取り桜井が辞めて、正式に碇矢が三代目のリーダーになったが、引き続き桜井はオーナー的立場で面倒を見た。
この結果、残されたメンバーはリーダーの碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、渡辺プロとの繋がりからメンバー入りしたサックスの綱木だったが、小山は病気で入院中で綱木は臨時雇いであり実質のメンバーは、いかりやと加藤だけだった。
その後、石川というメンバー(名前、担当音楽不明)が極々短期間メンバーとして加入している。
2016/5/17(火)
   
ザ・ドリフターズのつながりをもっと見る
スポンサードリンク
ザ・ドリフターズのつながりをもっと見る