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ザ・ドリフターズ ロカビリー

ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。現在は、グループで活動することはほとんどない。

www.geocities.co.jp

laughy.jp

www.fami-geki.com
  元・正メンバー。
二松學舍大学文学部卒業。
1964年9月に高木と同時にドリフ入り。
ドリフ入りした当初は「リーダー(いかりや)より年上では何かと問題がある」ということで、加入後しばらくは高木とほぼ同年代(1934年生まれ)と年齢を詐称していた。
なお、当初はドリフのメンバーですら彼の正確な年齢を知らなかった。
オルガン(ピアノ)担当。
しかし、クレージーウエスト時代にピアノの欠員が出て、それまで担当していたスチールギターから急遽転向した経緯があったため、ロカビリーのスリーコードしか弾けず、演奏できるレパートリーは数少なかった。
いかりやの著書によれば、いかりやは彼のレパートリーの少ないことを知らないままヘッドハンティングしたことを後悔したという。
コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、シカトし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが人気を博した。
「なんだ、バカヤロー!」と「This is a pen!」のギャグはよく知れ渡っている。
ボーカル担当。
ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。
平尾昌晃、ミッキー・カーチスと並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。
実父は落語家で喜劇俳優の柳家金語楼。
本人はコメディの分野には進んでいないが、『ドリフ大爆笑』に1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。
2代目リーダー。
ギター、ボーカル担当。
岸部リーダー時のメンバーの大半が脱退後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木を誘って3人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。
ドリフをロカビリー→ロックバンドからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったためジミー時田とマウンテンプレイボーイズよりいかりや長一をヘットハンティング。
一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木、仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)した。
1964年秋リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年ドリフの管理を渡辺プロへ譲渡し脱退。
フジテレビ系バラエティ番組『ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。
ボーカル担当。
水原弘、守屋浩と並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手 ドリフのバンドボーイから昇格 長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。
映画「青春を賭けろ」にも出演 代表曲は「雨に咲く花」。
ドリフ脱退後暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが44歳という若さで死去。
1956年春頃からプレスリー人気が日本にも波及するようになり、カントリーウェスタンバンドの中で、当時最新の音楽だったロカビリーに行くか純粋にカントリーのままで留まるか、路線を巡り合従連衡が起こった。
ロカビリーはドラムが必要だが、カントリーには邪道だと思われていた。
そんな背景の中で、同年秋頃に「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成。
名の由来はアメリカのThe Driftersの息子(Sons)という意味からつけた。
岸部清がリーダー。
1957年2月に山下敬二郎が加入、駐留米兵相手のウエスタン兼ロカビリーバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。
大野と親交のある高木は、いかりやが3代か4代目のリーダーと語っている。
つまり大野が初代とすればいかりやは4代目となる。
2017/10/15(日)
   
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