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ザ・ドリフターズ 渡辺プロ

ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。現在は、グループで活動することはほとんどない。

www.geocities.co.jp

laughy.jp

www.fami-geki.com
  いかりや長介がリーダーに就任した当時は渡辺プロダクションに所属。
1979年より渡辺プロダクションより分社した「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(→EMIミュージック・ジャパン→現名称:UNIVERSAL MUSIC LLC/Virgin Musicレーベル)で、デビュー当初より在籍していた。
なお、東芝音楽工業在籍中「ドリフのツーレロ節」のみ、なぜか当時渡辺プロが出資していたワーナー・ブラザーズ・パイオニア(→ワーナー・パイオニア→現名称:ワーナーミュージック・ジャパン)から出ている。
また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システム(→アポロン→バンダイ・ミュージックエンタテインメント→現名称:ランティス)から発売された。
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇。
ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。
なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)。
初代リーダー。
ギター担当。
元・東京ウエスタンボーイスの出身。
マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。
その後、1958年桜井輝夫にリーダーの座を譲り、渡辺プロマネージャーを経て、現在は芸能事務所「第一プロダクション」社長。
音楽出版社協会(MPA)副会長、音事協の名誉理事を兼任。
2代目リーダー。
ギター、ボーカル担当。
岸部リーダー時のメンバーの大半が脱退後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木を誘って3人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。
ドリフをロカビリー→ロックバンドからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったためジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘットハンティング。
一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木、仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)した。
1964年秋リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年ドリフの管理を渡辺プロへ譲渡し脱退。
フジテレビ系バラエティ番組『ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。
サックス担当。
1964年春に桜井と繋がりのあった渡辺プロより「ドリフのメンバーになって助けてやってくれないか?」と言われてメンバー入り。
中野にあるお寺の息子で、売れない頃のドリフターズは稽古場として彼の実家であるお寺を利用していた。
新生ドリフがお笑いを確立する前のれっきとした正メンバーだった(1964年 - 1965年)。
彼は正メンバーとして残りたがったが真面目気質でコメディに向いていなかったため、ドリフが1965年に正式に渡辺プロ傘下へ預けられる直前でいかりやから脱退を命じられる。
経年経過が著しく、彼に関する資料も殆ど残ってないため、生死も含めて現在の動向は不明。
ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。
いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、影のドリフメンバーと呼んでいた程ドリフに貢献した人物。
現在ドリフの所属するプロダクション「イザワオフィス」社長兼ワタナベエンターテインメント社長。
以下、雑誌「ミュージックライフ」、いかりや長介著「だめだこりゃ」、高木ブー著「第5の男」、および加藤茶の証言などを基に極力矛盾が少なくなるように整合させた、いかりやが正式リーダーになるまでの経緯を紹介する。
なお、新生ドリフ結成の解釈には、おなじみ5人のメンバーが揃った時と渡辺プロ移籍時の2通りがあるが、本記事ではイザワオフィスの公式発表に従い後者とする。
1963年、桜井は徐々にライブに出演しないようになるが名目上のリーダーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は実質的なリーダーとして練習の鬼と化した。
また、この時期に碇屋長兵衛という芸名で出ている。
この時の写真(下記メンバー2)→(メンバーの桜井と飯塚の2人が写っていない)1964年夏、碇矢のワンマンぶりに対し小野は一種のクーデターを起こし、吉田、飯塚、猪熊を誘って脱退して、「ドンキーカルテット」を結成する。
当初は加藤も加入したい意向であったが、小野はグループ名を「カルテッド(4人組)」と決めていたことで今さらグループ名を変更しにくいのと当時辛うじて世間に顔が売れていた加藤を残留させれば新たにメンバーを集めてドリフは残せるとの考えから、加藤へ「お前はドリフに残った方がいいのではないか?」と説得した。
また、加藤本人の話では碇矢からも「お前はどうするんだ!!」と凄まれて執拗に残留を求められ、その時の碇矢の顔の迫力により「残ります…」と言わざるを得なかったとされているが、実際は桜井から「加藤、お前はどうするんだ?」と持ちかけられて説得されたという経緯がある。
その他、小野らが正式に脱退を決めていないうちから脱退後の仕事をブッキングしていたのに違和感を覚えた事も、残留を決めた理由の一つだったという 小野らのクーデターのきっかけは、碇矢がコントの練習中に練習に身が入らないメンバーに対して怒り出し「お前らなんか辞めちまえ!」と恫喝した事で小野らは既に脱退メンバーで構成するグループ名を「ドンキーカルテット」と決めており、脱退後の仕事をブッキングしていたことで「はい、仰せの通り辞めさせて頂きます」と言ってあっさり辞める意思を示してしまい、焦った碇矢は「俺が辞めるからお前らはドリフに残ってくれ」と何度も小野らを説得した。
しかし小野らは碇矢がリーダー代行となった当初から音楽よりもコントの練習を重視する姿勢に嫌気が差していて、ドリフが世間に売れ始めてようやくまともな収入を得られるようになったことから仕方なく残っていただけであり既にドンキーとしての仕事を始める直前であったことから結局脱退する運びとなった。
騒動の責任を取り桜井が辞めて、正式に碇矢が三代目のリーダーになったが、引き続き桜井はオーナー的立場で面倒を見た。
この結果、残されたメンバーはリーダーの碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、渡辺プロとの繋がりからメンバー入りしたサックスの綱木だったが、小山は病気で入院中で綱木は臨時雇いであり実質のメンバーは、いかりやと加藤だけだった。
その後、石川というメンバー(名前、担当音楽不明)が極々短期間メンバーとして加入している。
1964年冬、小山はバンドが完全にお笑いに移行することに興味が無いことと体調不良もあり脱退する意向を示した。
後釜としていかりやが早急なメンバー補充を求めており、1965年初頭、「クレイジー・ウエスト」でのボーカル経験があり、「パップ・コーンズ」にも在籍したことがあり高木とは顔なじみの仲本こうじが参加 ここで初めて誰もが知る5人のメンバーが揃った。
またこの後しばらくは綱木が正メンバーとして在籍し、ドリフは6人構成だったことはあまり知られていない この時の写真(下記メンバー2)→(写真後方左が綱木)1965年春、正メンバーとして残りたがったがお笑いに向いていないとして、綱木がいかりやに強制脱退させられる。
その後1965年夏、桜井の意向によりドリフは渡辺プロに預けられることとなり、桜井はドリフから完全に身を引いた。
なお、ドリフといえば通常、桜井の影響が完全に無くなり碇矢が名実ともにリーダーになったこの時期以降のことを指す TVでいかりやが「ドリフ40周年」と言っていたが、西暦を数えるとちょうどこの年に当たる。
なお、加藤の「20歳でドリフに入った」との証言(彼が入ったのは19歳で、1964年の秋は21歳)から、ドリフ再結成(新生ドリフ結成)年の解釈に疑問も残る。
* この頃までは、ドリフターズはジャズ喫茶出演が中心で、全国的には無名に近いバンドであり、かろうじて加藤の「カトちゃんぺっ」のギャグがTV放映でわずかに知られていた程度である。
※1965年以前は各文献で記述と年代の矛盾があり、正確な年次は不明な部分がある。
ドリフは、渡辺プロとイザワオフィスの公式発表では1964年の新生ドリフ結成、小野や加藤の出演するバラエティー番組では1960年の桜井輝夫とザ・ドリフターズ結成、坂本が紹介される番組では1956年のサンズ・オブ・ドリフターズ結成を起源として紹介されている。
渡辺プロが強引にTBS系の『8時だョ!全員集合』を一時休止してまで製作した公開生番組 内容・構成は「全員集合」とほぼ類似 セットは後に同局の『ハッチャキ!!マチャアキ 』や『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に流用された。
2016/5/17(火)
   
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