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ながしま しげお
長嶋茂雄
長嶋 茂雄(長島 茂雄、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督(読売ジャイアンツ監督(第10代、第14代))。読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続けた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献し、国民的人気を誇った。2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督。2013年、国民栄誉賞を受賞した。

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  長嶋の獲得に尽力していた南海ホークスの監督鶴岡一人にはオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪。
この時、鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。
その2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放つと、8月6日の対広島戦から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。
1962年は打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。
本塁打王と打点王のタイトルは同僚の王貞治が獲得し、同年以降、長嶋と王は巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。
これは米メジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。
打順は通常、3番王、4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番、王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。
巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇し(V9)、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。
引退試合前のミーティングで長嶋はチームメイトに「思い残すことはない みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶 その後、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王にそっと「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とささやいた。
それに対して王は笑って「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と答えている。
後に長嶋はこの引退の理由について当時の時点では「まだ二~三年は選手としてやれる」と思っていたが、自身の成績の低下や、チームの連覇が途絶えてしまった事、「お金も名誉もいらないから選手としてやらせてほしい」という理由で断っていた巨人軍の監督のオファーが断れなくなった事を挙げている。
1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。
川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編 そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘し、川上は作戦コーチの牧野茂、投手コーチの藤田元司に残るように要請し、森昌彦をコーチで残せ、堀内恒夫をトレードで出せとアドバイスしたが、長嶋は川上時代のコーチ陣を一掃し、川上のアドバイスをすべて蹴っている。
長嶋と森は犬猿の仲である。
新背番号は「90」 新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。
長嶋は現役最終年時点で、引退即監督就任は考えておらず、現役を2・3年は続行したい思い(フットワークの衰えは認めていたが、それでもまだ現役をやれると思っていたという)があった。
また、引退後2・3年はバックネット裏から野球を研究したり、コーチを経験してからの監督就任を考えていたが、チーム事情から引退即監督就任の運びとなった(『読売新聞』1999年11月27日付)。
1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。
当時巨人の選手だった柴田勲は「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力が落ちたのもあるが、コーチ陣を一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」,「コーチ陣と上手くいっているように見えなかった」と述べている。
この時、長嶋は自身の野球人生は「波乱万丈」だと思ったという(『読売新聞』1999年11月27日付) そのため1975年のオフには「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。
日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三、富田勝との交換で獲得 さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だったが、「球の速い方」の加藤を選択したとの関係者の証言あり)。
外野の名手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。
コーチ陣も前年から一軍コーチで留任したのは黒江のみで打撃コーチには2軍監督だった国松彰が就任した。
投手コーチに就任した杉下茂は鈴木龍二セ・リーグ会長からの要請で就任した。
ヘッドコーチには極秘で南海の選手兼任監督野村克也に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。
当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。
ところが肝心の長嶋がクビを縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わり、野村は選手兼任監督で南海に残留した。
翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。
日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。
このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイトを獲得した。
ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。
スタッフでは、長嶋の理解者であり、伊東キャンプでも臨時コーチを務めた青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。
しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。
この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。
野球マスコミやファンの間では、栄光のV9時代を懐かしみ、前監督の川上哲治の待望論が徐々に出るようになっていった。
実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)する。
ようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘を原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロントが11人のコーチ(福田昌久、須藤豊、関根、宮田、淡河、中村稔、瀧安治、黒江、国松、町田行彦、鈴木章介)を解任にした。

黒江は78年に退任しているが長嶋から「片腕としてよくやってくれたけど、球団の考えなんだ 申し訳ないが辞めてくれ」と言われ 黒江は涙ながらに長嶋に「片腕の黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですかと訴えました」と言ったと言う 。
復帰初年度の1993年は3位に終わった。
打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。
そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。
1995年はヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢、松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。
2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号3に変更。
当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。
世間の背番号3の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。
同年、長嶋率いる巨人は日本シリーズで、王貞治が監督の福岡ダイエーホークスに勝利し日本シリーズ優勝達成。
2002年2月に宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。
7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。
12月、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。
2003年11月に行われたアジア選手権で中国、台湾、韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月4日、脳梗塞で倒れ、入院。
一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。
長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った。
ため、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。
長嶋の代理としてヘッドコーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。
大舞台でよく打ち、勝負強さが印象付けられている。
日本シリーズでは通算68試合に出場して出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズの初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。
日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。
2本塁打を放った天覧試合については、チームメートの広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している。
1966年11月6日の日米野球戦・天覧試合でも場外本塁打を放っており、皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打7本塁打)を記録した。
ホームスチールを6回試みて2回成功させている。
その他、一塁走者として、後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を通過しながら二塁を空過して一塁に帰るという三角ベース事件を、1960年・1964年・1968年の3回起こしている。
その一方で敵チームの三角ベース事件も3回発見している。
大学4年生の時に岐阜県立岐阜商業高等学校野球部へにコーチに行き、当時1年生だった高木守道を指導した。
長嶋は高木の才能を見抜き、監督に高木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、高木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となった。
また遊撃手だった高木を二塁手に転向させるよう監督に提案したという。
後に高木とは10.8決戦で監督同士として対決した。
2017/8/18(金)
   
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