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ながしま しげお
長嶋茂雄
長嶋 茂雄(長島 茂雄、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督(読売ジャイアンツ監督(第10代、第14代))。読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続けた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献し、国民的人気を誇った。2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督。2013年、国民栄誉賞を受賞した。

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  幼少時代、阪神タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。
小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。
また、グラブも母親の手縫いのもので『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.111、初めて握ったバットは青竹を割った手製のものであった沢木耕太郎著「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』収録)。
1959年6月25日、後楽園球場で行われた対大阪戦は、昭和天皇が試合を観戦する日本プロ野球史上初の天覧試合となった。
試合は大阪が1点を先制するが、5回に長嶋と5番打者の坂崎一彦が2者連続で本塁打を放って巨人が逆転した。
6回には大阪が3点本塁打で試合をひっくり返したが、7回に6番打者・王貞治が2点本塁打を放って同点とした。
試合はそのまま進み、4対4で9回裏を迎える展開となる。
この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。
9回裏、阪神は先発の小山正明を交代し、2番手の村山実が登板。
打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールからの5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。
打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。
1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言 一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った雑誌Number 名勝負列伝 村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。
長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振 2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。
長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。
村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。
2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。
村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している。
1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。
巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。
王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。
この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。
そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。
王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。
乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。
さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。
苦手のコース・球種の無い長嶋は、敬遠を受けることが多かった。
初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。
1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。
1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。
村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。
同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。
また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の2死ニ、三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。
敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。
1968年5月11日の中日戦、二死2塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。
長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。
球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。
1971年6月17日の広島戦では、7回二死3塁という場面で、広島の井上善夫、水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。
3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。
スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった。
1998年、7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。
長嶋は著書『野球は人生そのものだ』の中で、監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた。
1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本をマークするなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。
高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。
金田正一、村山実、権藤博、足立光宏、江夏豊、板東英二、稲尾和久など複数の投手、また捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した野村克也が長嶋を「計算できないバッター」と評している。
権藤や足立は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった」と評しており、「打てるボールを確実に打つ ポテンシャルが高いのでほとんどのストライクゾーンに来るボールは王にとって『打てるボール』になってしまうのだが、打てないボールまで何とか打つというタイプではなかった」と王と対比しながら語っている。
江夏は「打席ごとに何故打たれたのか、何故打ち取れたのかが全く分からない」と長嶋について語っており、野村は長嶋を「来た球を打てる天才」と称している。
極端とも言えるアウトステップが特徴だった。
川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム 長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの 真似してはいけない」と諭していた。
この点は金田正一も触れており、「シゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。
凄い迫力だった」と語っている。
長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230など極端な打低投高の環境下であり、さらに1974年の現役引退後には打者に有利なラビットボールが普及し、翌1975年以降はセ・リーグの打高化が一気に進んだ。
そのため、傑出値をはかるセイバーメトリクス(RC関連、XR関連、長打率傑出度やOPS傑出度など)においては、ほとんどの通算記録指標で長嶋はプロ野球歴代3位以内に位置する。
打率傑出度(RBA)でも右打者歴代1位であり、その時代で傑出した打者だったことが分かる。
また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手が通算打率1割台から2割前後の中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)と高いアベレージを記録しており、通算で場外本塁打を含む6本塁打や27打点・26四死球・5盗塁などを残した。
多趣味であり、立教大学4年の時には淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。
そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。
特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。
なお、映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ 性分にあわない」と語っていた。
2016/5/15(日)
   
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