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長嶋茂雄
長嶋 茂雄(長島 茂雄、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督(読売ジャイアンツ監督(第10代、第14代))。読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続けた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献し、国民的人気を誇った。2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督。2013年、国民栄誉賞を受賞した。

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  1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。
川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編 そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘し、川上は作戦コーチの牧野茂、投手コーチの藤田元司に残るように要請し、森昌彦をコーチで残せ、堀内恒夫をトレードで出せとアドバイスしたが、長嶋は川上時代のコーチ陣を一掃し、川上のアドバイスをすべて蹴っている。
長嶋と森は犬猿の仲である。
新背番号は「90」 新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。
1979年は5位に終わった。
長嶋はV9時代を知らない若手軍団を「シンデレラ・ボーイ」と呼び、伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させた(伊東キャンプ)。
江川、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆、赤嶺賢勇、山倉和博、笠間雄二、中畑清、淡口憲治、篠塚利夫、松本匡史、平田薫、山本功児、中司得三、河埜和正、中井康之、二宮至の18人が参加。
このキャンプで若手の結束力が高まる。
キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、後に若手は藤田元司時代の主力選手となる。
長嶋批判が渦巻く中、1980年8月に当の川上が、青田昇、牧野茂、藤田元司、国松彰らを集めて週刊文春の座談会を開き、取材担当の瀧安治にオフレコにする条件として長嶋の後継監督について色々と話し合った。
ところが数日後にその記事が掲載され、長嶋降ろしの波は避けられないものとなった。
最終的に、球団のオーナーである正力亨ではなく、読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。
球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった。
川上派の批判に晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作の結果とみなし、長嶋の川上への悪感情は決定的なものになった。
川上がOB会会長になった後はOB会への欠席を続け、1990年に、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受けて、しぶしぶ出席したのをきっかけに川上と「和解」。
後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。
カルピス - 藤田元司、広岡達朗、金田正一と共演。
2017/8/18(金)
   
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