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名前 |
太田不動尊(太田一里塚跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
旧西国街道の「太田一里塚」と伝わります。安威川に架かる「太田橋」から、東向きの一方通行になっている道を少し入ったところにある「お堂」と「集会所」のあるところです。〇旧西国街道「大化改新」の政策の一つとして設けられた「五畿七道」のうちの「山陽道(さんようどう)」のことです。飛鳥浄御原宮、藤原京、平城京、長岡京、平安京より、九州に通じる重要道路「大路」の規格の「幅8m以上、両脇に幅1mの排水路」を持つものでした。この辺りは、東の「今城塚古墳」の南端から、「継体天皇藍野陵古墳」の南縁までの直線道路が、さらに西に見える「幣久良山(てくらやま)」の南麓の「上野」にあった中継点の駅家「殖村駅(うえのむらうまや)」に向かって直線で結んでいたと思われます。平安時代には、九州への主要交通路の地位を「淀川水運」に奪われて衰退して、道路を農地・宅地へと転用されて現在のような細い道路となってしまいました。〇太田一里塚江戸時代の脇街道の「山崎通」にも、一里(約4㎞)おきに旅程を示す「一里塚」が設けられていました。ここより東には「芥川一里塚(高槻市芥川町)」があります。さらに東の「梶原一里塚」跡には、ここと同じように「お堂」があります。