スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
伝松永久(久秀)屋敷跡地 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
5.0 |
近年の研究により、謎の多い松永久秀についての実像が明らかにされつつあります。その内の出身地について、いくつかある中でも特に、この東五百住が最有力説になっています。写真は、2020年12月16日に訪ねた写真ですが、地元の方の案内で場所を教えていただきました。この付近では、今は田地であるこの付近が、松永氏の屋敷であったと古くから伝わっているそうです。また、元亀2年(1571)7月に、松永久秀・三好義継勢が、高槻城を攻めた時、高槻城に付城を2箇所作ったようで、『高槻しろあとだより』では、その内の一つを西天川村と推定しています。そしてもう一つは、もしかして私はこの東五百住村の久秀の縁故地を利用したのではないかとも感じます。立地は、川で囲まれた中州状で、北側には西国街道。それに接する砦的に使われたとされる今城塚古墳。篠原氏と関係の深い富田村との連絡と同時に、高槻への連絡路の遮断もできます。