奥の院で感動の豊臣家!
豊臣家 墓所の特徴
天下人、豊臣秀吉を静かに偲ぶ神聖な場所です。
お墓の並びは、軍議を思わせる独特の景観が魅力です。
豊臣家の誇り高い歴史を感じる感動的なスポットです。
奥の院のご供所や護摩堂など賑わっている方ではない参道を行くとすぐ左手に豊臣家の墓所が出てきます。【墓所の看板の解説文】この墓所の正面には、豊臣秀吉公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山大師上人の説得により、高野攻めを取り止め、以後高野山を庇護するとともに復興興隆につとめられました。
この墓所の正面には、豊臣秀吉公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山大師上人の説得により、高野攻めを取り止め、以後高野山を庇護するとともに復興興隆につとめられました。和歌山県⸻Tombstones of the Toyotomi FamilyThe tombstones here are those of Toyotomi Hideyoshi (1537–1598), his mother, his half-brother Hidenaga (1541–1591), and Hidenaga’s wife. Taking up the strategy of Oda Nobunaga (1534–1582), Hideyoshi came to attack Koyasan with his army. The monk Ogo (1536–1608) of Koyasan was able to convince him to change his mind. Afterwards, Hideyoshi came to respect Ogo as a great religious man, and himself became a major patron of Koyasan.Wakayama Prefecture
2025.11.3江戸時代、徳川政権に変わったタイミングで規模が縮小されたそうです通りから一歩中に入るんですが、すぐにわかります。
近くにある織田信長の墓よりかなり広くて大きいです。こちらは一族一同ってこともあるかも。
豊臣家墓所には、豊臣秀吉(1537-1598)とその母、秀吉の弟である豊臣秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。現在、石塔が11基並んでます。そのうち、中央の1基(303cm)は、昭和15年(1940)、豊公会によって造立されたもので豊臣太閤秀吉公之墓と記されています。
奥之院の中にある豊臣家墓所は、豊臣秀吉とその母、秀吉の弟秀長と夫人など豊臣一族の墓があり、現在石塔が11基並んでいる。中央の1基は1940年に豊公会によって建立されたもので、正面には、「豊臣太閤秀吉公之墓」と記されている。この五輪塔の内部には、秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められている。奥之院の中には、さまざまな戦国武将の供養塔が立ち並んでいるが、ひときわ広い面積を持ち、優雅に石塔を配置しているのは、時の権力者の栄華繁栄を誇示しているようにも見える。
豊臣家墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。この墓所には、豊臣秀吉(1537-1598)とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓がある。現在、石塔が11基並んでいる。そのうち、中央の1基(303cm)は、昭和15年(1940年)、豊公会によって造立されたもので、京都の豊国廟から霊土を移したという。五輪塔の正面には、「豊臣太閤秀吉公之墓」と記されている。この五輪塔の内部には、秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められている。紀伊名所図会には、江戸時代の奥の院が描かれており、そこには10基の石塔が描かれている。また、宝永4年(1707)に描かれた「奥の院絵図」(金剛峯寺蔵)には、10基の石塔が描かれ、8基には次の通り石塔名が記されている。大納言殿北方、大光院殿前亜相、太閤秀吉公、春厳貞松、前関白秀次公、石田治部少輔、三位法印、御上臈。
2024年のゴールデンウイークの早朝(7時)に訪れました。この時間でも比較的多くの方が訪れていました。やはり目玉はこちらのお墓でしたが、各有名企業のものも多数ありました。
豊臣家の墓所になります。多くの人が訪れています。
| 名前 |
豊臣家 墓所 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0736-56-2011 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
(豊臣家のお墓が高野山奥の院にあるのはなぜ?)高野山と豊臣秀吉の深い歴史的・信仰的な繋がりにあります。1高野山の庇護と復興かつて織田信長は高野山と対立しましたが、秀吉は高野山の使僧・木喰応其(もくじきおうご)の説得を受け入れ、軍事侵攻を中止ました。その後、秀吉は高野山を厚く庇護し、寺院の復興や整備を全面に支援したため、豊臣家にとってゆかりの深い聖地となりました。⦿弘法大師(空海)信仰高野山奥の院は、弘法大師が永遠の瞑想を続けているとされる入定信仰の地です。⦿秀吉自身もこの信仰を重視し、亡き母の供養のために高野山を頻繁に利用しました。⦿お大師様のそばで供養されたいという願いから多くの諸大名が奥の院に供養塔を建てており、豊臣家もその一角を占めています。⦿現在の墓所の構成現在奥の院にある豊臣家墓所には、11基の石塔が並んでいます。⦿秀吉の供養塔:秀吉の母(大政所)や弟の長秀、さらには、秀頼と淀殿を供養する塔などが集まっており、豊臣一族を弔う場所となっています。⦿高野山の奥の院は、敵味方関係なく供養する『怨親平等』(おんしんびょうどう)の精神に基づいているため、豊臣家だけでなく彼らと戦った徳川家や織田信長などの墓所も同じエリアに存在しています。