小幡信真の魅力を再発見!
小幡上総介信貞之墓の特徴
小幡信実が活躍した歴史的な場所です。
武田軍に関する貴重な史跡を訪れられます。
愛知県新城市の文化遺産としての重要性があります。
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武田軍の武将。上州国峰城主、西上野衆。討死の伝承が残るも実際は生存していたようで、勝頼からの書状が残る。
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| 名前 |
小幡上総介信貞之墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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正しくは小幡信真(信実)です。小幡氏は上野国甘楽一帯を勢力範囲とする有力国衆で、信真の妹が武田信豊に嫁ぐなど武田家と強い結びつきを持っていました。「甲陽軍艦末書」には真田氏・朝比奈氏と共に「御譜代同意」と記載され、外様国衆ながら武田家中で譜代並みの扱いを受けていたことが分かります。「信長公記」では討死した武将として「西上野小幡」と名前がありますが、実際は普通に生存しています。有名なところでは長篠合戦の戦後処理に関して、春日虎綱が勝頼公に小幡信真の木曽への配置換えを献策した旨の記載が「甲陽軍鑑」にあります。その後の数々の史料にも名前が登場し、武田家滅亡後は織田家に従属しています。長篠合戦では小幡勢は武田信豊、武田信廉らと共に中央に配置され、国衆としては珍しく独立して一隊を構成していました。「信長公記」には「西上野小幡一党赤武者」との記載があり、小幡勢が武具を赤色で統一した「赤備え」だったことがわかります。武田家では「赤備え」など武具の色の統一は許可制でした。実際に元亀3年(1573年)に信玄公は武田信豊に赤備えの独占許可を与え、天正2年(1574年)に勝頼公が武田信豊を黒に改め、代わりに赤は小幡信真に許可されます。よって兄・飯富虎昌の赤備えを弟・山県昌景が引き継いだとの説が有名ですが、上記の内容に加え、山県昌景の有力寄子が別の色を使っていた記録が「甲陽軍鑑」にあるため、兄から弟への赤備えの継承は真実ではないようです。また同様に「信長公記」では小幡勢の馬入り(騎馬による突撃)を「関東衆馬上の功者にて」と称賛しており、小幡勢の騎馬隊の練度の高さと同時に、武田騎馬隊による突撃があったことが分かります。ルイス・フロイスの「日欧文化比較」に「日本人は馬から下りて戦う」との記載があることから「武田騎馬隊は存在しなかった」とする説もありますが、17世紀後半に成立した「雑兵物語」では「東国の侍は馬に乗る」「馬に乗っての戦いが無くなって久しい」「西国の侍は馬に乗るのが苦手」などの記載があります。ルイス・フロイスの行動範囲は九州や畿内など西国のみだったため、東国と西国の馬を使った戦いの違いを知らなかったのだろうと言われています。