山県昌景公のお墓、武田の勇士よ憧れ。
山縣三郎兵衛昌景之碑の特徴
武田二十四将の最強と称される山県昌景公の墓です。
立派な宝篋印塔がある歴史的な場所です。
小型の墓も存在し、訪れる価値があります。
武田四天王の一人、山県昌景の墓です。長篠の戦いにおいては武田軍は織田軍を無視して徳川軍を突破しようとしたようです。山県隊が最前線で徳川軍を攻め立てたようです。ここに墓があるということは、ここまで引き上げたうえで自害したようです。いわゆる鉄砲の3段打ちで壊滅したのは後世の脚色なのでしょう。地元の方に大切にされているようでした。
この山縣昌景之碑に入るには、民家の横の細い通路を裏庭へ行くような感じで通るので多少後ろめたい感じですが、民家をすぎれば裏山へ通じ、曲がりながら登っていくとすぐ正面に4基の石碑があります。この地区の地名にもなったとされているようで、この山縣昌景之碑にしろ、この一帯には織田徳川色よりも武田家所縁の名将たちの石碑がたくさん有ります。4基の石碑を左に向かうと、林のなかを通って開けた畑へ出られます。位置的には信玄塚方面へ行けるのでしょうか。山縣昌景を知ったのは若い頃読んだ歴史小説で、叔父とも兄とも言われる飯富虎昌と共に武威にも政務にも長けた武将として魅力を感じる名将です。また訪れたいと思います。
言わずとしれた山県昌景公のお墓です。民家の間を通り抜けて進むと、従者のお墓に並ぶ形で建っています。長篠・設楽原の戦いでは武田軍の左翼を担当して徳川軍と相対します。腕に銃弾を受け采配を持てなくなると、それを口にくわえて離さず、最期はそのまま討死したそうです。
武田二十四将で最強と言われた赤備え隊を率いた山県昌景公の墓ですが立派な宝篋印塔は後の物で当時の物は横に有る小型の物?更に従士の墓も有り項目も別れてますが写真少く此方だけ。歴史博物館近くに有りますが路駐して少し山に入りました。wikiでは小柄で身長130~40cmしか無かったが勇猛で長篠の戦いで討ち取られた首名簿の筆頭で子孫が山梨市で山県館という温泉旅館を経営されているとか。
山縣昌景公のお墓です。竹広激戦地に近く、銃弾を受けたとのことです。今もしっかり整備されています。黒澤監督の影武者では、大滝秀治さんが演じていました。
武田24将の中で一番好きな山県昌景の墓です。ここに来たくてわざわざ設楽原へ来たと言っても過言ではないくらいの場所です。長篠合戦図屏風の、あの首だけになっても口から采配を咥えたまま家来に運ばれてる姿には深い感銘を受けました。行けて本当に良かったです。
☆武田最強「赤備え」を率いた武田四天王『山県昌景』、武田二十四将✨1575年長篠城攻囲戦、織田・徳川連合軍の救援部隊が岡崎城出撃、武田勝頼に他の重臣と共に甲府への一時撤退を進言も聞き入れされず、設楽原に進出前、内藤昌豊・馬場信春・土屋昌次らと訣別の盃を交わし決死の覚悟⚔️設楽原に翼のように展開した武田軍左翼の中核を原昌胤・内藤昌豊と担う、開戦と共に正面の徳川陣に激しく突撃を決行、馬防柵破壊突破を試みるも全身に銃弾浴び壮絶に戦死🐎☆信玄台地の丘陵中腹に竹広激戦地・徳川陣地を臨むように『山県三郎兵衛昌景』の墓、他に山県甚太郎昌次・従士名取又左ヱ門道忠・高坂又八郎助宣の墓も並びひっそりと静かに佇んでいます、凄く周辺も整備され地元の方の心遣いを感じました、武田家忠義の士・猛将『山県昌景』陣地であり墓を訪問する事が出来て良かったです😄
山県昌景は武田家の武将で武田四天王の一人に数えられています。設楽原の決戦では不利を悟り撤退を進言しましたが、主君勝頼はこれを受け入れず決戦場に赴くことになりました。設楽原では山県は武田軍の左翼を務め徳川家康の陣に果敢に攻めかかりましたが、損害が大きく敗退となりました。おそらく山県ほどの戦歴を持つ武将なら両軍の備えを見た時点で勝敗の行方は見えていたと思います。さらに敗北した主家の行方も想像できたのではないかと思います。それにも関わらず兵士を叱咤して突撃を繰り返して行った心情を考えると、切ない気持ちになります。
2017年11月に訪問。武田四天王の一人・山県昌景公の墓所です。部隊の軍装を「赤備え」という赤一色に統一した猛将です。新城市設楽原歴史資料館から車で3分ぐらいの場所にあります。駐車場ありませんが、道路からちょっとした道を歩いて2分ぐらいで墓所があります。
| 名前 |
山縣三郎兵衛昌景之碑 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いで戦死した武田軍の重臣・山県昌景の墓所です。山県昌景は、武田信玄・勝頼の2代にわたって仕え、「武田四天王」や「武田二十四将」の筆頭に数えられる宿将です。率いる部隊が軍装を赤で統一した「赤備え」は、最強部隊の代名詞として恐れられました。設楽原の決戦では、織田・徳川連合軍の馬防柵と鉄砲一斉射撃の前に武田軍が壊滅的な打撃を受ける中、昌景は自ら先頭に立って突撃を繰り返しました。しかし、激しい銃撃を受けて全身に無数の弾丸を浴び、壮絶な戦死を遂げました。彼が最期を遂げたと伝わる連吾川(れんごがわ)沿いの決戦地近くに墓碑が建立されており、武田軍最強と謳われた名将の終焉の地として語り継がれています。