異本年代記の足跡を辿ろう!
異本年代記』の天文二十一年(1552)十月二十七日の条に、「義藤霊山御城普請始」とある。義藤とは、13代将軍足利義輝の初名である。この地にはもともと正法寺があったが、同十九年(1550)に破却されていた。正法寺は初め霊山寺と称しており、霊山の名はこの寺にちなむものであるが、城名に対し寺名の読みは「りょうぜん」である。この年の初め、義藤は三好長慶と和睦し近江から京へ戻っていた。しかし、将軍とは名ばかりの傀儡だったため、長慶への備えとして霊山城を築いたものと思われる。翌二十二年(1553)七月、義藤は三好方の小泉城を攻撃したが、攻城に手間取っているうちに後詰が到着したため撤退した。翌八月一日には、長慶勢2万5千の大軍が霊山城を攻撃した。将軍家家臣松田監物や近江の土豪磯谷氏、醍醐三宝院門徒らが守っていたが、城は1日で落ち、監物は戦死したとされる。このとき義藤は北野の右近馬場城にあったとみられているが、霊山落城の報に触れて再び近江朽木へ落ちていった。霊山城はそのまま廃城になったものと推測される。
名前 |
霊山城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
35 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
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将軍塚の駐車場からすぐの地点(XQXQ+RH2,京都市)からトレイルに入り、多少下って東山19の地点から木戸孝允公の碑方面に進んでいくと着けるのですが、2024年11月時点で写真のとおりです。