スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
城ヶ島砲台西側砲塔跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
5.0 |
戦艦安芸から取り外した25.4cm連装砲の砲塔跡地。戦艦安芸は1907年(明治40年)に進水したが、1921年(大正10年)のワシントン軍縮会議の結果により、廃艦にすることが決定された。1924年(大正13年)、戦艦安芸は、千葉県野島崎沖にて戦艦長門、戦艦陸奥の砲撃により撃沈処分された。城ヶ島砲台は、国際社会の荒波に呑まれ、詰め腹を切らされた悲運の戦艦安芸の忘れ形見である。1925年から約1年半をかけて25.4cm連装砲塔2基が城ヶ島砲台に設置され、東京湾口から相模湾東側までの守備に就いた。1941年(昭和16年)11月26日、城ヶ島砲台は各砲3発で合計12発の試験射撃を実施した。試験射撃は約1週間前に公示され無線放送により航行禁止が周知されていたが、当日イギリス巡洋艦が南方より出現する。イギリス巡洋艦の安全に支障がないことを確認した後、城ヶ島砲台は予定通り試験射撃を実施した。イギリス巡洋艦は発射火光と同時に左へ90度、伊豆大島の方向に変針したことから、偵察活動であったと推定される。当時の国際情勢の緊張感がうかがえる。1941年12月8日午前1時30分頃、海軍洲崎水中聴音所より連絡のあった不明潜水艦の水中音探知位置に対し、射撃を実施するも戦果なし。当日、太平洋戦争が開戦する。戦時中は、擬装のため屋根が設けられ、付近にも擬装用の民家が設置されていた。城ヶ島砲台は終戦時も残存していたが、戦後まもなく破壊処理される。西側砲塔跡は駐車場内にターレットリングの跡を残しているが、約80m南東にあった東側砲塔跡は舗装の下に姿を消した。25.4cm砲の要目は以下の通り。最大射程24.6km。(被帽通常弾使用時)射程は南東の館山市洲崎から、北西の江ノ島までを収めていた。砲塔の重量238トン。砲身45口径。砲身俯仰角35度〜マイナス2度。初速810m/秒。弾丸重量235kg。発射速度毎分1.5発。