静岡の山城、諏訪原城の魅力。
諏訪原城跡の特徴
日本百名城の諏訪原城は、武田勝頼が築いた歴史的な山城です。
巨大な丸馬出しが印象的で、武田流築城術の真髄が見られます。
ビジターセンターの近くからアクセスしやすく、広大な敷地を楽しめます。
山城が好きなら楽しめます。目的地はビジターセンターにしないとたどり着きません、諏訪原城跡だと駐車場の無い登山口に案内されてしまいます。クリアファイルなど購入できます。
続日本100名城 No.146スタンプは南側、旧東海道沿いの諏訪原城ビジターセンターにて押印可武田家の遠江侵攻の拠点となった城。1569年に徳川家と武田家に挟撃される形で今川家が滅亡すると、遠江の領有権を巡り両者で対立が起こる。今川を滅ぼした暁に旧領をどうするか徳川武田の両者の同盟にあたりどう取り決められていたのかは様々な説があり、大井川を境に東を徳川家に西を武田家にで分けるとした説、遠江を徳川家が駿河を武田家が領有するとした説、駿河は武田家が領有し遠江は切り取り次第とした説等がある。北条家を敵に回した事により、敵を増やしすぎた武田家が徳川家に譲歩する形となった(この際に、家康との間を取り持つ様に要請したにも関わらず応じなかった信長に対しての怒りが後の西上作戦に繋がったとの説がある)。西上作戦の最中に武田信玄が亡くなると、家督を継いだ勝頼も父の西上作戦を受け継ぐ形で遠江侵攻を目論む。その一環として東海道沿いの牧之原台地上に当城を築城する。普請については諸説あるが馬場信春とされる事が多い(築城者についても勝頼とする説が一般的だが、信玄とする説もあり定かではない)。前述の通り、東海道沿いに位置する当城は高天神城への補給線を確保する上で非常に重要な意味を持つ城であった。父信玄もなし得なかった、遠江の最重要拠点の高天神城の攻略に成功し勢いづく武田勝頼と、浅井氏及び朝倉氏への対応を終えた織田信長が本格的に交わる長篠の戦いで、武田家は致命的な痛手を追うこととなると、家康が反攻に転じる。高天神城の再奪還を優位に進めるため当城は標的となり、徳川軍に包囲される。城番の室賀満正らが徹底抗戦を見せるも落城し当城は徳川家の手に落ちる。これにより高天神城への補給路は絶たれ、武田家は高天神城の防衛において不利に立たされる事となる。ちなみに当城を手中に収めた家康は今川氏真を一時的に城番としていた。家康により改築が成された(現在残る遺構は殆どがこの際の物であるとされる)が、1582年に甲州征伐で武田勝頼が天目山で自害し武田家が滅亡すると、当城の存在意義も薄れ廃城となる。大井川を背にして本曲輪を置く後ろ堅固となっており、その本曲輪を取り巻くようにして二の曲輪が敷かれる。この二の曲輪に中馬出は三日月堀が現存しており、往時は10メートルを超える深さと100メートルを超える長さ誇った。この丸馬出は武田家が好んで使うものであったため当遺構は武田時代のものとされるが、武田家の築城技術に倣って徳川家が築いたものとする説もある。六つの馬出によって虎口が守られ、強固な要塞であった事が伺える。
旧東海道沿いに諏訪原城大手口があります。諏訪原城跡は 予想をはるかに上回る大きな遺構でした。予定を変更して 時間をかけて回りました。諏訪原城の築城は1573年 武田氏による。1575年5月 長篠の戦いで織田•徳川に武田が敗れ、同年8月 諏訪原城も徳川に奪取された(牧野城または牧野原城に名称変更)。1582年武田氏が滅亡すると、牧野城の必要が無くなり1590年頃に廃城となった。武田時代の「諏訪原城」の命名は、武田家の守護神「諏訪大明神」を祀った事からです。「二の曲輪中馬出=丸馬出(まるうまだし)」は日本最大級と言われ、諏訪原城跡のシンボルと言われています。
武田勝頼がその威信と遠江制覇の夢を乗せて、馬場信春と武田信豊に築かせた城なだけあって、前線の城にしては規模感が異常にデカい。徳川時代に改修されているようで、堀の深さなどが武田時代からこの規模だったかは分からない。なんなら構造的に大手曲輪や惣曲輪は武田っぽくない気もするので、徳川時代の拡張かもしれないそれでも二の丸と本丸の構造は間違いなく武田流建築術を感じさせる。大手曲輪と惣曲輪は茶畑になっているので、ある意味現在の諏訪原城は武田時代に近いのかもしれない。随所で武田流建築術と四郎様の意気込みが感じられます!
武田勝頼がその威信と遠江制覇の夢を乗せて、馬場信春と武田信豊に築かせた城なだけあって、前線の城にしては規模感が異常にデカい。徳川時代に改修されているようで、堀の深さなどが武田時代からこの規模だったかは分からない。なんなら構造的に大手曲輪や惣曲輪は武田っぽくない気もするので、徳川時代の拡張かもしれないそれでも二の丸と本丸の構造は間違いなく武田流建築術を感じさせる。大手曲輪と惣曲輪は茶畑になっているので、ある意味現在の諏訪原城は武田時代に近いのかもしれない。随所で武田流建築術と四郎様の意気込みが感じられます!
2025.9.6登城。今川→武田→徳川→役目を終えて廃城。武田が大改修しているので武田の城の特徴が大規模に残っています。馬出しと三日月堀は圧巻。でもやはり戦国中期までの城でしょう。鉄炮の登場でこの規模の堀では役に立ちません。戦国を慕んで観るのは面白いです。やはり草が枯れる秋〜冬が訪問のベストシーズン。
続百名城で訪問。この遺稿はとても素晴らしく城の堀切などが綺麗に残っており当時の城の様子がよくわかります。天守閣など目を引くものはありませんが城の縄張りなどがしっかりと残っているので順路に沿って歩く事で理解が深まります。森の中に隠されている堀などを見つけると楽しいです。またビジターセンターのおじいさんが凄く良い人で諏訪原城の見学方法やグッズの団扇などを頂戴出来ました。
静岡県で一番の山城だと思います。武田氏、徳川氏が築いた馬出の迫力が凄いです。また近くに諏訪原城ビジターセンターという施設があり、模型があったり、グッズが売られているので、山城に興味がある人は、ぜひ訪れて欲しいです。
〈続〉日本百名城の諏訪原城。天正元年(1573)、武田勝頼が築城し、城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたとの事。時計回りにゆっくり歩いて40分くらいで一周できます。
| 名前 |
諏訪原城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.shimada.shizuoka.jp/institution/list/suwaharavisitor/ |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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諏訪原城跡は、静岡県島田市に残る戦国時代の築城技術をよく伝える国指定史跡です。天正元年(1573)、武田勝頼が家臣の馬場信房(馬場美濃守信春)を普請奉行、武田信豊を補佐役として築いた城で、城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と名付けられたといわれています。大井川を見下ろす牧ノ原台地に位置し、駿河と遠江を結ぶ交通の要衝を押さえるとともに、徳川方の 高天神城 を攻略するための前線基地として重要な役割を果たしました。この城の最大の特徴は、武田氏が得意とした 丸馬出 が極めて良好な状態で残されている点です。城内には七つもの丸馬出が築かれ、半円形の曲輪と三日月堀を組み合わせた防御施設が連続しています。とくに二の曲輪北馬出は、二つの馬出を組み合わせた「重ね馬出」という高度な構造を持ち、発掘調査では礎石や門止め石が確認されています。平成29年(2017)には、その成果をもとに徳川時代の薬医門が復元され、当時の姿をより具体的に感じられるようになりました。天正3年(1575)、長篠の戦い直後に徳川家康が城を攻略すると、城名は 牧野城(牧野原城) に改められました。その後は武田方の高天神城を攻める拠点として利用され、今川氏真や松平家忠が在城したことでも知られています。『家忠日記』には、堀や塀の改修を繰り返した記録が残されており、家康がこの城を戦略上重視していたことがうかがえます。高天神城が落城した天正9年(1581)以降、諏訪原城は次第に役割を終え、武田氏滅亡や家康の関東移封を経て、天正18年(1590)頃に廃城となったと考えられています。しかし戦乱の舞台から外れたことで、戦国時代そのままの縄張りが大きく改変されることなく残りました。現在でも深い薬研堀や巨大な丸馬出を歩くと、武田氏と徳川氏が知恵を尽くして築き、守り、奪い合った「攻めの城」の迫力を実感できます。全国でもこれほど保存状態の良い丸馬出群を見られる城跡は珍しく、戦国城郭を学ぶうえで欠かせない名城です。戦国期の築城技術を体感したいなら、ぜひ訪れたい場所といえます。