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名前 |
大幸堂(阿弥陀堂) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
大幸堂(阿弥陀堂)は、上下町井永地区を通る石見銀山街道脇の高台にあります。この場所は昔、北側の谷筋を登る峠道の登り口でもありました。付近は「安養寺」という廃寺の跡でもあり、その名残りか辻堂の傍には今も六地蔵が祀られています。江戸時代の初期、元禄12年(1699年)に行われた検地の台帳「御検地水帳」にも記載されているほど歴史が古い辻堂で、文化庁の記録によれば、江戸時代末期の享和2年(1802年)と弘化2年(1845年)に再建され、明治27年(1894年)には屋根を葺き替えています。棟札によれば、最後に修理が行われたのは昭和59年(1984年)のようです。それから40年近くも経ち、床板が抜けそうな場所もありました。辻堂は壁も天井も無い四本柱の東屋で、床板が張られています。広さはほぼ一間四方(2.2m×2.2m)で、屋根は切妻造りの瓦葺きです。奥側上段には祭壇が設けられ、石仏が6体安置されています。木製の椅子に座るのは石造の弘法大師で、左端の石仏は頭の上に馬の顔が載った馬頭観音です。辻堂の名前になっている阿弥陀如来はどの石仏か判りません。不思議な造りだったのは左から三番目の石仏で、舟形光背を背負った人型の薄い浮彫りの周りに、梵字か何かが一面に彫ってありました。驚いたのは、屋根裏に葬儀で使う「輿(こし)」が納めてあったことです。輿は、遺体の入った丸い棺桶を載せて担いだ葬儀用具です。上下町でも火葬場が無かった頃、昭和30年代までは各地域で土葬が行われていました。それ以降、屋根裏に置かれたままなのでしょう。ただ、この辻堂で最も特筆すべき点は、旅人が残した毛筆の落書きが柱や梁など至る所に残されていることです。上下町内で昔の落書きが残る辻堂は他にはありません。江戸時代に大半が福山藩の領地であった備後地域では、その頃の街道筋に今も多くの辻堂が残っています。初代福山藩主の水野勝成が、旅人のための休憩所の整備を奨励したのが始まりとされています。当初は旅人の休憩所でしたが、後に地蔵や石仏が持ち込まれて信仰の場としての意味も持つようになりました。広島県内の辻堂は「安芸・備後の辻堂の習俗」という名称で昭和58年(1983年)に国の無形民俗文化財に選定されています。