昭和の面影残る調布飛行場。
調布飛行場門柱の特徴
調布飛行場の旧門柱が道の両側に佇んでいます。
残された史跡表示の石の柱が歴史を感じさせます。
昭和14年当時の飛行場の規模を実感できる場所です。
調布飛行場は1941年に公共飛行場として開設されました。現存する滑走路に加えそれに交差する計2本の滑走路がありました。その後すぐに太平洋戦争が始まるともっぱら陸軍が使用しました。三式戦飛燕を装備した244戦隊が有名で、武装を外した飛燕でB29に体当たりを行い戦果を挙げました。戦後は、現在グラウンドなどになっている西側地区は米軍向けの水耕農業地帯になりました。1973年に飛行場一帯が日本に返還され、その後空運会社が主に伊豆七島便を運行するようになりました。この門柱は開港当時からあり、戦時中は検問が行われたと推察されます。
道路の両側にあります。気をつけていないと気付きません。
調布飛行場の裏側、野川に沿った場所にある旧陸軍の飛行機の史跡表示の石の柱。向かい側は大沢グランド。
古い門柱ただそれだけ。
普通に門柱なので特段、見る物でもないかと。
ここは昔門があった記憶があります、今はバス等が通っていますが随分変わったと思います。
旧調布飛行場時代の面影を残す史跡になっています。2つ並んだ門柱の間の道路はいまも調布飛行場まで行く道になっています。
調布飛行場 は、昭和14年(1939 年)、当時の東京府が三鷹村・調布町・多磨村にまたがる広大な畑や山林を半ば強制的に買い上げ、多くの農家を移転させて建設に着手した。 この門柱は、東亰調布飛行場竣工時、正門として左右に設置され、戦時中は、「東部第百八部隊」等と厚い大きな板に墨書きされた表札が掛けられていた。 昭和16年(1941 年)4月30日に竣工式が行われ、公共用飛行場として「東亰調布飛行場」として開設された。 同年12月の開戦とその後の戦争の激化により、陸軍による拡張が繰り返され、関連施設を含めると六十万坪を上回る規模となった。 本土爆撃に飛来する米国機の迎撃や特別攻撃隊 の訓練施設として、帝都防空の最重要拠点となった。 昭和20年(1945 年)の終戦と同時に米軍飛行部隊による進駐があり、アジア極東地域米軍基地で消費される野菜類を水と化学肥料だけで栽培する「調布水耕農場」が建設され、露地栽培を含めて野菜の一大生産基地となった。 多くの生命が失われた悲惨な戦争を記憶にとどめる生き証人としてこの門柱 を保存し、平和への道標となることを願うものです。
柱は道の左右にあり当時の雰囲気を残していますので、かつての飛行場の規模を実感できるのではないでしょうか。付近には掩体壕を保存した公園もありますので、併せて見学すると良いと思います。
| 名前 |
調布飛行場門柱 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0422-34-4840 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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昔の調布飛行場の門にあった柱。説明が書かれた看板読むと半ば強制的に土地を買い上げ飛行場を作ったらしい。なかなか凄い時代だ。