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名前 |
内藤家長の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
富津市指定有形文化財(史跡)旧勝隆寺・内藤家長の墓一基富津市花香谷四五五 勝隆寺昭和四十八年七月六日 指定内藤家長は江戸時代最初の佐貫城主であり、中世の佐貫城を 改築した人物である。内藤家長は徳川家康に仕え、天正三年(一五七五)の長篠の戦い、天正十八年(一五九〇)の小田原の合戦で活躍し、その功によって同年に佐貫城主に封じられ、二万石を拝領した。その後、家長は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦直前に伏見 城において戦死した。この時、十六歳になる次男小一郎元長も 共に戦死している。家長・元長の首級は家来の者によって伏見城内より密かに運び出され、近江国大練寺に葬られた。のちに 佐貫花香谷の道本山善昌寺(旧勝隆寺)へ改葬されている。佐貫城主としての在世中は、領地内の産業振興に力を注ぎ、当地方の発展に貢献した。内藤氏は嫡子政長の代になって元和八年(一六二二)に福島県の平城に移封されたため、内藤氏が城主となったのはわずか三十二年であった。内藤家長の墓は宝篋印塔型の墓石で、塔身表には「善昌寺殿」、 背面に「藤原家長」と刻まれる。また、側面に法名「義松院殿 厳誉槃應善昌大居士」が刻まれていたとされる。【現地案内板より抜粋】佐貫城から、阿部正身・正恒の墓を目指して来たら、内藤家長や松平勝隆などの歴代佐貫城主の墓もあり、寺自体は荒廃している様にも見えますが、見応えのある墓所でした。