壮絶な忠義、村上社で感じる歴史。
撫で身代り〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂154 鎌倉宮内参拝者無料休憩所脇案内板を読むと、村上義光公の壮絶な最後が偲ばれます。村上義光(むらかみよしてる)公は、世界大百科事典に次のように書かれています・?‐1333(元弘3)鎌倉末期の武士。《尊卑分脈》《梅松論》では義日と記す。清和源氏村上信泰の子。彦四郎と称し、従五位下左馬権頭。1331年(元弘1)の笠置落城後、般若寺より高野山へ逃れる護良(mりよし)親王に随従、芋瀬荘司より錦の御旗を奪回し、また33年吉野落城の際には幕府の大軍が包囲する中、親王の身代りとなって自害し、親王を落ちのびさせた忠烈の士として《太平記》に描かれている。●撫で身代りの由来村上義光公は 護良親王の忠臣にして元弘三年(一三三三年)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。そこへ村上義光が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて胸を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向って落ちのびました。このように身代りとなられた村上義光公を境内の樹齢一〇三年の欅の大木にて彫り上げ「撫で身代り」として入魂致しました。
名前 |
撫で身代り(村上義光公木像) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
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