木更津港で歴史を感じる!
木更津港開発功労者頌徳碑の特徴
木更津港開発の功績を称える記念碑です。
見応えのある歴史的な石碑が特徴です。
訪れることで地域の歴史を学べる場所です。
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名前 |
木更津港開発功労者頌徳碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
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木更津港開発功労者頌徳碑〒292-0831 千葉県木更津市富士見3丁目7訪問日は2024年8月15日。木更津港まつりの花火大会の日でした。木更津港開発功労者の話や、木更津港まつりの由来などが丁寧に案内されています。普段は見向かれないとは思いますが、木更津にとっては重要な記念碑だと思います。【木更津港まつり】戦後間もない昭和23年、「木更津港の開発に尽力した先覚者の霊を慰め市民生活に安らぎを取り戻そう」と始まりました。その後、木更津港を広く内外に紹介し、重要港湾としての木更津港の振興、併せてかずさ地域の産業観光振興並びに地域住民の連帯意識の高揚を図ることを目的として、今日まで受け継がれています。【木更津港開発功労者頌徳碑】木更津港の開発に尽力した歴代の町長である、香々見儀助・石川貞次郎・伊藤勇吉・石川善之助の功績を後世に伝えるもので、市の直轄工事により昭和25年11月3日に鳥居崎海岸へ建立されました。題額の文字は元千葉県知事の川口爲之助氏が揮毫、碑文は八劔八幡神社宮司の八劔功氏が起草、碑文の文字は千代倉胖(桜舟)氏が揮毫、石刻は北片町の鳥飼伊三郎氏が行いました。毎年8月14日には木更津港まつりの開催に先立ち、これら先覚者の霊を慰めるために、頌徳碑前において「修祓式」が挙行されています。-頌徳碑の碑文は以下の通り-義経記に伝えられる木曽宇戸の浜の昔は言うまでもない。江戸に通う木更津船の豪勢な時代でさえ、我が木更津浦の実情は漁舟便船のささやかな船溜に過ぎなかった。明治十二年塩谷組の汽船恵比寿丸を初めとし、君津丸、愉快丸、福沢丸等の汽船が次々に京浜の間を往来するようになった時代に於てさえ、其の汽船は海岸から一浬の沖に停泊し、僅に一條の澪に依って浮舟の伝馬船が、旅客や貨物を運漕し、干潮の時には十数町の浅瀬を更に人力車の便を借りねばならぬという奇観を呈して居た。明治三十一年三月香々見儀助氏町長就任以来夙くも茲に着眼し、画策多年遂に町営築港の議を纏め、明治四十一年一月エを起して苦心尽瘁せられ、同四十五年一月石川貞次郎氏町長の時、汽船を岸壁に横着けし得るまでに成功したが、大正元年八月汽車の開通を見るに及んで町民が港への関心は漸く薄らぎ、同六年の風水害はこの先哲の功を殆んど画餅に帰せしめた。大正八年五月伊藤勇吉氏町長に就任するや高邁規模を大にして県営築港の案を樹て、県会の議を経て昭和七年十一月着工、会々海軍航空隊基地建設の業と相俟って、浚渫築堤の工事大に進み、昭和十一年十一月石川善之助氏町長の時竣工するに至った。先見の士 時を察し機を逸せず啓蒙開発其の偉業素より一朝一夕の談でない。其の背後には幾多の人材が献策置礎の功、洵に尠なからぬものがある。袖浦の清漣調べ豊かに、幾代の偉績を後昆に伝えるであろう。木更津港の基礎石昭和七年十月三十日当時の蒸気海岸、現在の中央三丁目で木更津築港の起工式が行われた時、当時の千葉県知事岡田文英氏の銀の小槌によって留金が解かれ、水煙りをあげて港へ沈めた基礎石で、木更津港の歴史を今に伝える貴重なものである。木更津港も時代の変遷とともに五十有余年を経た今日、この基礎石を発見したので末永く保存するものである。平成ニ年十月吉日。