700年前の宝篋印塔、歴史を体感!
泣塔の特徴
深沢スポーツ広場の奥に位置する泣塔は、通称宝篋印塔です。
約700年前に建立され、鎌倉市の文化財に指定されています。
安山岩製の約2メートルの高さを誇る歴史的な塔です。
現在はスポーツ広場となっているJR大船工場の跡地に建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の通称です。1356年(文和5年)の建立とされています。現在は鎌倉市が管理しておりフェンスで囲われているものの、フェンスの外側から拝見することができます。
青山昭🌄🗻⚡︎5足!!
およそ2メートル、安山岩製。1356年の銘があり、鎌倉公方基氏の時代。基氏の母は尊氏の正室で、洲崎合戦でこの付近(不明)で自刃した赤橋(北条)守時の妹。背後のやぐらには小型の凝灰岩の五輪塔が数基。またこの周辺地域からも多くの五輪塔が出土しており、これらは鎌倉期のものである可能性もあり南北朝期の洲崎合戦の戦死者のためのものであるかは不明だが、柏尾川越しに富士を望む市境のこの地一帯が宗教的な地であったことは確かである。(多目的広場に入って右奥。フェンスで囲まれて近づけないが崖の縁に立っているのを見ることができる。月一度有志『泣塔クラブ』による清掃活動あり、一般参加可能)
柵があり、近くで見学できないのが残念です。
鎌倉市有形文化財に指定されています。正式名(登録名)「石造 宝篋印塔(文和五年銘)」その名の通り文和五年(1356)と彫られており、この近く、洲崎での戦において亡くなった者たちを供養する為に建てられたとされています。 が、ちゃんとした文献が残っている訳では無いそうで、実は詳細不明です。 泣塔の所以は、昔この地から青蓮寺に塔が移された事が有り、その時に「元の場所に戻りたいと塔が啜り泣いた」との言い伝えからです。真偽の程はともかく、洲崎合戦の供養塔であれば此処に居たいと思うのも分かる気がします(笑) また、それからと言うもの、この地が旧日本軍の工場になった際も国鉄の車両基地になった際も塔を移動させようとすると祟りがあったそうです。現在ではJRから鎌倉市に所有者が変わっていますが、泣塔はそのままです。近くに東海道線の駅が出来、商業施設の誘致がなされるとの噂がありますが、実現したとしても将門の首塚の様に、この一画は残されるのでしょうね。
柵があり中に入れない。
今から、700年前に建立された塔です。この場所は洲崎の古戦場でしたので、その慰霊の塔と云われています。モノレール下の道路を深沢駅から大船方面に向かって藤塚小学校入口の信号を左に入って200mくらい行くと一部分だけうっそうとした森が左手見えます。その小高い丘の上に泣塔があります。もとはJRの敷地でしたが、現在は空き地の中にあります。鎌倉市の所有ですが、サッカーができる空き地の入口から入ると写真の宝塔がご覧になれますが、中には柵があります。現状は施錠さており、遠目からの観察となります。
名前 |
泣塔 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-61-3857 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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深沢スポーツ広場に入り、駐車場の奥、右手にあります。土砂崩れの恐れがあり、フェンスで囲まれていました。近くで見たかったです。