玉縄城址で戦士を弔う。
玉縄首塚の特徴
玉縄北条氏と里見氏の激しい戦いの歴史が刻まれた場所です。
合戦の戦死者を弔う石塔やお地蔵様が点在しています。
近隣住民が訪れて掃除を行い、香華が絶えない神聖なスポットです。
戦国時代にあたる1500年代に北条氏と里見氏が戦を始めたが、その後和睦のために玉縄城主の北条氏時は敵と味方の首を互いに交換し、その首をを葬り塚を築いて塔を建てたものがこちらの首塚なのだそうです。六地蔵様も大切に祀られております♪
鶴岡八幡宮の戦いの際に玉縄でも戦闘があり、戦後に首を交換し北条側の死者を弔ったのが由来である。傍らの榎もこの時に植えられた。と伝わっている。管理も行き届いている。調査・研究が進み敷地内の「由来」は誤りが指摘されている。石碑なので更新が出来ないのはもどかしさがある。
大永6年(1526)、安房の里見氏が鎌倉に侵攻した際に戸部川(柏尾川)辺りで玉縄城の北条氏と激戦になり、双方に多数の死傷者が出た。この首塚は北条方の戦死者の首を埋葬した場所と伝える。戦国時代は討ち取られた首級は敵方に持ち去られるから、双方が交渉して首級を交換したという。江戸時代後期の碑文が建っているが、近寄らないと判読不能。撰文は旗本の間宮士信(ことのぶ)で、「新編武蔵風土記稿」編纂の総裁にもなった学識者。士信の先祖は後北条氏の水軍の将で、碑文でもそのことに触れている。写真4枚目は柏尾川。首塚は遠景に見える戸部橋の手前左手にある。
県道402号から脇道に入ってすぐの所にある。北条vs里見の合戦時にお互いが取り合った首を交換し、弔った塚。お地蔵さまが6体あり、その後ろに馬頭観音様も控えている。2022年に訪れた時は、時節柄お地蔵さんは皆マスクを着けていた。
龍寳寺に行く途中にありました詳しくは 分かりません。
北条氏と里見氏の合戦戦死者供養此処からフラワーガーデン二伝寺久成寺抜け道右側へ。
玉縄橋近くの公会所で、タブの木の根元に五輪塔、六地蔵などがまつられていて、香華が絶えない。ここには旗本御書院番で地理学者間宮士信撰文で同じく旗本で能筆戸川安清の書、江戸の名工廣羣鶴刻の「玉縄首塚碑」がある。文政8(1825)建。名碑であるが剥落がすすんでいる。碑陰に喜捨列名あり。また昭和42年の「玉縄首塚由来」碑もある。・玉繩首冢碑 鎌倉軍玉繩首冢碑記 西城小姓番士兼編集間宮士信撰 從五位下大隅守戸川惠書并題額 文政8[臥12020]・怨親平等 玉繩首塚由来(口語文)昭和43 玉繩史跡顕彰會建之 篆額;富岡周吉郎 文並書;光峰楚石。
玉縄北条氏と里見氏の間で戦があり、多くの戦死者を出した。戦後、両氏は戦死者の首を交換し、この地に葬った。
灰皿があります。
| 名前 |
玉縄首塚 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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北条氏時翁による南総里見氏との戦い後の首塚。フラワーセンターへ向かう徒歩中に多くの方が立ち寄るスポット。