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名前 |
観音寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.0 |
とある国人一揆の拠点となったらしい城跡。応永二十三年(1416年)に勃発した上杉禅秀の乱に端を発した、禅秀方残党による国人一揆は、応永二十五年上総国平三城を拠点に反鎌倉府の軍事行動を起こすが、鎌倉府が組織した征討軍の攻撃に破れ逃げ去った。恐らくこの時、征討軍は一揆勢の追撃をせずに引き揚げた為、一揆勢の勢力は温存されたまま転進し、一年後の応永二十六年(1419年)正月、坂水城を拠点とした再蜂起を招いたのだろう。その坂水城に関しては、諸説存在しているが、歴史研究者郷土史家らの現地調査を踏まえた考察の結果、坂水観音堂所在の丘状の微高地である当地が坂水城である事が判明したという。数年前に訪問した時、観音堂前の小広い広場で地元の方と思しき男性が掃き掃除をしており、恐縮ながらも御挨拶のついでに当地の城跡に関する話や言い伝えについて伺ってみた。結果、ここに城があったという話は聞いたことが無いという。有益な情報が得られないまま、観音堂の周囲を歩いて観察してみると、確かに城郭の様な特徴は無いものの、唯一の特徴としては、広場の周囲の急斜面であろう。城郭構造で言う所の切岸の様にも見える。自然地形なのか人工的なものかは不明だが、防御能力を高める為には役に立つだろう。振り返れば、原付でこの丘状の小山を登った時、曲線上の道路と切通状の土壁が所々在った事を思い出した。これは、元々在った細道を後から広げたものか、中世頃に構築されたものかは分からないものの、丘陵地の土地構造の複雑さは伺えた。ポイントは、古文書『烟田文書』中の軍忠状写の文言、(前略)就中去月三日城責之時、最前上切岸致合戦之間(後略)にある”最前上切岸”だろうか。城所在の確定には、切岸構造の有無が鍵になるであろう。