於古牟に寄り添う歴史の味。
名前 |
本徳院(田安宗武生母)の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
〒146-0082 東京都大田区池上1丁目1 Unnamed Road |
評価 |
5.0 |
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八代将軍徳川吉宗公の側室で、九代将軍徳川家重の生母の於須磨の方が若くして亡くなった後に、「於古牟」と呼ばれた側室となった方です。側室となった経緯も、亡くなった於須磨の方の又従姉妹であることから選ばれたと伝わります。また、俗名を須磨と呼ばれた於須磨の方と同様に、吉宗公が紀州徳川家の藩主だった時期に側室に入ったため、紀州藩士 の娘で俗名は古牟(こん)となります。さらには、於須磨の方と同じく、吉宗公の子を懐妊し、小次郎を授かります。この小次郎が、御三卿のひとつ田安家初代当主となる「徳川宗武」です。「徳川宗武」は、あの「松平定信」の実父でもあり、松平定信同様に出来た方で、障害が持っていた兄(家重)よりも宗武を九代将軍に推す声が強かった程でした。しかしながら、三代将軍家光公と弟忠長卿との間で起きたような騒動を避けるため、将軍継承にあたっては長幼の序を重視されたこともあり、吉宗公の裁定により兄 家重が将軍、弟 宗武が田安当主となりました。とは言え、確執は納まらず、宗武はその後3年間の謹慎、また、それ以降は兄弟で対面することもありませんでした。あわやと思わせた争いをした異母兄弟の生母達は、我が子の元服をみることなく、若くして亡くなっており、於須磨の方が享年26、於古牟の方も28の若さで没しています。実は池上本門寺にそれぞれのお墓があり、縁者ということもあるのかお墓もご近所にあります。しかしながら、生母のお墓にも長幼の序に従っているようで、その大きさに差があり、やはり、本徳院のお墓は小さいです。でも、考えると、松平定信公にとって祖母の墓になるスゴイ方のお墓ですが。。。