歴史の息吹感じる甲府の地。
山崎刑場跡の特徴
甲州街道と青梅街道の分岐点に位置する史跡です。
今から300年ほど前に設けられた死刑執行場の跡地です。
甲府代官所に関連する重要な歴史的スポットが存在しています。
❶【参考 西山梨郡郷土研究 昭和12年】今より300年ほど前 甲府連隊、今の七中隊兵舎の付近に、刑首場を設け、一年間ここにて執行せし後、山崎の地にうつせしものなり。明治3年“大小切り騒動”における断首21人を最後として、今その後に日観上人の手により建てられたる供養塔 寂しく立ち居れり。大小切り騒動・・・1872年(明治5年)に山梨県で起こった一揆[供養塔について]この供養塔は明治5年、約1kmほど東方の太鼓面(地名にして横根船形神社の太鼓を張りし所により起こる)に持ち行き、遂にこの地の石橋として用ひられたり。しかるに形あまりの先とがり居りし為か、北巨摩郡江草村 出身 境町の住人 小宮山重吉(これは柳澤甲斐守の一条の城を築き石工の子孫なりと)なる石工、その石幅をせまくし、かつ、長きに失したる部分を、割り取り置きしを、明治10年大橋幸右衛門、及び、木川庄兵衛氏 発起人となり現在の位置に1基のみ持ち帰りて、たてられ、上部の割りし部分を接ぎて現在に至れるものにして、なおいまだ、南無妙法蓮華経の1基のみは太鼓面にあり。[刑場での執行について]此の断首は刑場100坪の他に電光形(じぐざく)の頂點(頂点)にほれる4ヶ大なる井戸の側には莚石とて4尺に3尺程の小判型の平面石ありて、斬首される者はこの石の上に菰蓆(こもむしろ)を敷き、これに坐せしめ、両手は後方にまわされ、6尺ほどの棒とともに縛され、この棒にて控へいり、執行後死体 引き取り人無きときは、この棒にて井戸中に突き落とす物にて、此の棒を“批良棒(べらぼう)”という。引き取り人あるときは、横に倒し置くなり。ある時は夜に入りて、死体を引き取りたるものなりと。[刑場の供養寺・現在]此のけいじょうの面積は100坪、今は人家たてられほとんど跡形もなく此の供養塔裏西に題目堂(供養寺)あり。云々・・・明治32年、33年まで住し居たり、その後竹藪となり居たりしを、明治35年この地を佛下げ、畑地となし、人家建てられて今はほとんど碑の付近数坪にすぎざれども、今なお早朝または深更(しんこう・まよなか)詣ずるもの多く、香煙のたゆることなく定めし亡者も冥するならん。【参考 甲府連隊七中隊兵とは 甲府聯隊写真集 1978年】歩兵第49連隊の中隊のひとつ、旧糧秣庫が、山梨大学教育人間科学部の赤レンガ館として現存している。7,8中連隊の兵舎は赤レンガ館のすぐ西側にあった。赤レンガ館の南は炊事施設であったの為、その近くで斬首処刑を行うとはとうてい思えない、7連隊宿舎の北側か、西側でないかと私は推察する。
| 名前 |
山崎刑場跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
甲州街道と青梅街道との分岐点にある甲府代官所の死刑執行場。江戸中期に設けられ、明治5(1872)年の大小切騒動処刑を最後として廃止するまで約50年間使用された。高さ2m40cmの「南無妙法蓮華経 身延山五十八代 日還」の供養碑がある。家の横にひっそりとあり、かなり目立たない場所にあるので普通は通り過ぎてしまうかも。