歴史を感じる小野神社の論社。
小野神社の創建年代は不明です。祭神は、天下春命(あめのしたはるのみこと:武蔵秩父國造の祖) 、瀬織津比賣命(せおりつひめ:川瀬の女神)です。式内社・小野神社の論社の一つです。多摩川をはさんだ多摩市に、同じく小野神社があり、武蔵国一宮です。同じく式内社・小野神社の論社です。現在は多摩市の方が有力で、境内も広く社殿も立派です。しかし確たる証拠はありません。多摩川の氾濫により社地が移動し、遷座を繰り返した結果、二社になったとする説があり、また、府中市は元社で、多摩市に遷座した跡とする説もあります。
最寄駅 京王線中河原駅より10分程拝観料は無料 トイレ無し主祭神天下春命瀬織津比賣命『延喜式神名帳』に記載されている式内社「武蔵国多磨郡 小野神社」の論社の一つ。論社には他に多摩市の小野神社がある(式内社としての詳細は小野神社 (多摩市)#式内社「小野神社」の歴史を参照)。はけ下にある事から多摩川の氾濫に伴う水害によって遷座が行われた結果2社になったとされるが、どちらかが本社でもう一方は分祠であるともいわれる。多摩市の小野神社が武蔵国一宮として江戸幕府の保護を受けたのに対し、当社は近くの武蔵国総社・六所宮(大國魂神社)への崇敬が高まるにつれて衰微した。との事です多摩川を挟んで二つある小野神社府中市にあるこちらの神社は多摩市にある方と比べると規模ほ小さくなりますが立派なお社で町に溶け込んで座する感じで良いですね。
垂仁天皇(BC27年)の遠き古代に御祭神である天下春命と瀬織津比売命を勧請と日本惣国風土記にあるそうです🧐谷保天満宮で一緒に御朱印を拝受させて頂きました。祝詞でしか御名前を拝見しない瀬織津比売命様とやっと御縁を頂きました✨ありがたし🙏
延喜式内論社。多摩川の氾濫から逃れるために当地へ遷座したとも、当地へ分祀したとも言われております。小さいながらも境内は維持されていて、趣のある社でした。
名前 |
小野神社(府中市) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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多磨郡式内社8座の1座の小野神社の論社。近くを中央フリーウェイが通ってます。別称として小野宮とも呼ばれる。資料によると、小野神社は、一宮小野神社と共に延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている神社に比定され、視二井諸忍野神狭命十世兄武日命が、この地の国造となられたとき、天下春命を御祖神として奉斎したといいます。小野神社の論社については、現在は多摩市の方が有力で、境内も広く社殿も立派だが、確たる証拠があるわけではないようだ。多摩川の氾濫により社地が移動し、遷座を繰り返した結果、二社になったとする説があり、また、府中市は元社で、多摩市に遷座した跡とする説もある。とあります。御祭神は、天下春命(あめのしたはるのみこと)、瀬織津比賣命。天表春命は信乃阿智祝部(しなののあちのほうりべ)等の祖神とされる。天下春命は天表春命の弟神と見られ、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。この国造族が大伴部氏と推定されている。初代知々夫国造は天下春命の9世孫の知々夫彦命で、崇神天皇の御代に国造職を賜ったとされる。とあります。参考として、武蔵国は、律令体制の確立の過程で、従来の国造支配の領域を再編成してつくられた国で、かつては三国に分けられていました。\ufeff律令体制成立以前に当地域を支配していた豪族として「国造本紀」は无邪志(ムサシ)国造・胸刺(ムサシ・ムナサシ)国造・知々夫(チチブ)国造を伝えている。これらのうち无邪志国造が五世紀末から六世紀後半にかけて100mル級の大型古墳が出現した埼玉古墳群(行田市)を中心とした北武蔵に、知々夫国造が荒川流域一帯の秩父・男衾おぶすま・大里地方に勢力をもったと推定されている。また比企地方にも五世紀末の野本将軍塚古墳(東松山市)を中心とした大古墳を造った勢力がおり、四世紀後半から五世紀前半には多摩川流域にも亀甲山古墳や宝莱山古墳(いずれも東京都大田区)などの大型古墳が造られていた。あるいは胸刺国造と伝えられる勢力が多摩川流域に蟠踞していたのかもしれない。小野神社につては、兄武日命がこの地の国造となり、天下春命を御祖神として奉斎したとあり、兄武日命は兄多毛比命で、その児とされる4人が、胸刺(武蔵)、波伯(鳥取西部)、大嶋(周防大島)、菊麻(上総市原菊間)の国造に任じられています。ヤマトタケルと関東東北を平らげた後、随行していたタケヒが武蔵の国造となり、「兄多毛比」とは「大伴武日」のこと、と推定しました。とあります。