道玄坂の桜と与謝野晶子の息吹。
与謝野晶子歌碑・道玄坂道供養碑/由来碑の特徴
道玄坂のひっそりと立つ歴史ある石碑です。
与謝野晶子の足跡を感じられる貴重な場所です。
道端に桜が植えられていて、訪れる価値があります。
2026年4月初旬、平日訪問。
道玄坂の由来ですとか、与謝野晶子関連の石碑がまとまっています。駅前ほどの人混みはありませんので、興味のある方はのんびりと鑑賞できます。#クアたま。
渋谷・道玄坂を歩いていると、賑やかな街並みの中でふと足を止めたくなる場所があります。「与謝野晶子歌碑・道玄坂道供養碑/由来碑」。渋谷区道玄坂の一角に静かに佇む記念碑で、繁華街の喧騒とは対照的な落ち着いた空気を感じさせてくれます。近づいて碑文を読むと、歌人・与謝野晶子の歌や道玄坂の歴史が刻まれており、普段何気なく歩いている道にも深い物語があるのだと気づかされました。こうした歴史の痕跡を街中で見つけられるのは、散策好きとしては嬉しい瞬間です。プロ目線で言えば、都市の中にこうした文化的な記念碑が残されていることで、街の記憶や背景を自然に伝えてくれる役割を果たしていると感じます。渋谷の観光や道玄坂散策の途中で立ち寄ると、いつもの街の景色が少し違って見える——そんな発見がある場所で、私もまたふと訪れたくなる記念碑でした。
道玄坂の由来は、江戸時代に大和田太郎道玄なる盗賊がこの辺りで狼藉を働いていたとする説や、道玄庵という寺があったことに由来する説がある。大和田道玄がこの地で野蛮な振る舞いをされた被害者を供養するためのものか、戦死者を弔うために建てた供養碑なのか謎。
渋谷 道玄坂の途中マークシティの 入口にあります桜が 1本あり 綺麗でした。
道玄坂供養碑。坂を供養するというのがよくわからんが。
【与謝野晶子と道玄坂にご興味の方はよかったらぜひ】2023/08/06 12時ごろ訪問別にここを訪れたくてってわけじゃないのですが、見つけたので【行き方】・渋谷駅から道玄坂をずっと上ってください。・五叉路かな、ポツンとあります。・渋谷マークシティの裏の入り口と覚えておきましょう。【雰囲気】・渋谷って他にも竹下夢二の記念碑とかいろいろあるんですよ。でも、どうしても渋谷といい街柄、綺麗なもんじゃないんですよね。仕方がない。・写真を撮って家で碑文を楽しむのが良いと思います。暑いですし。
■与謝野晶子歌碑・道玄坂道供養碑と由来碑東京都渋谷区にある石碑。歌碑と供養石柱碑と道玄坂由来標石。「母遠うてひと三 志多しき西の山さがみか 知ら須雨雲 可ゝ累 」晶子●歌碑:歌碑と現代標札がある。▲供養と由来:紛らわしい碑。読み辛い駄目な標石。誰を供養するものか、渋谷氏か道玄か他か何方を供養した碑かは読んでも定かでない迷文。標石の字体は彫りも読み辛くて顕彰の役目を果たしていない。標石は無駄に大きくて狭い史跡を圧迫している。
碑文があるが、小さくて長くて読みにくい。情報が多すぎて。
| 名前 |
与謝野晶子歌碑・道玄坂道供養碑/由来碑 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/bunka/spot/meisho/bunkajin.html |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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2026年6月道玄坂道供養碑(道玄坂之碑)若い桜の木も青々と伸び、若葉が茂り気持ちよかったので立ち止まりました、道玄坂のなだらかな坂途中。白御影石に(細かい小さな黒や灰色の石目入り明るいグレー色に見え最も一般な花崗岩GG03か)、樋口清之という人が書いた渋谷道玄坂の由緒紹介碑文が彫ってあります、内容は渋谷若者文化への期待。文体は比較的新しく、かな使いも新しくて碑文には珍しく句読点「、」「。」も打ってあり、いわゆる文人風に「澁谷」と「渋谷」の中間の行書漢字を使ってるから、戦後の高度成長期辺りの昔かも。「 澁谷道玄坂澁谷氏が上条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年 大永5年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍らに道玄庵を造って住んだそれでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると澁谷附近もひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介、柳田國男が通学したり、坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じく、むしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。樋口清之[落款]」傍らに並びで、道玄坂ゆかりの浪漫派 女流歌人 与謝野晶子の短歌(新しい明治流行スタイルの和歌)解説プレートで渋谷区教育委員会の解説文があり、さらにその隣に並び立つ巨大な歌碑、黒い御影石に彫られた碑文はこの地 道玄坂にゆかりの短歌「母 遠て 瞳したしき西の山相模か知らず雨雲かかる 晶子」これは 1902年(明治35年)与謝野晶子の短歌(和歌)道玄坂の坂下に新設されてた夫の東京新詩社刊の「明星」に掲載夫と結婚しここ道玄坂辺りに新居を構えこの坂の上から 西の神奈川県 相模(=相州)の山々を見て はるか西の生まれ故郷 大阪府 堺(=刃物相州伝が伝わり全国に有名)を思った短歌(当時若者先端の新時代斬新な流行スタイルにした和歌)当時は前年の1901年に生まれ故郷の大阪堺を出て東京へ上京、「当時若い世代の最新流行文化」明治時代に始まった先端大流行の文学近代化活動で、短歌改革運動の中心者と大騒動のあと結婚しこの道玄坂の地で夫婦生活に入った頃。時代は、明治文学小説では「言文一致」で、二葉亭四迷が創始、夏目漱石や森鴎外など。明治文学和歌では「和歌革新運動(短歌革新運動)」の人物2人、正岡子規は根岸短歌会アララギ誌で、和歌の優美を捨て万葉集の「写生」を理想とし。与謝野鉄幹は新詩社で明星を刊行し、個人の情熱や愛を歌う「浪漫主義」を提唱、そして妻の与謝野晶子は「みだれ髪」。瞳したしき..瞳親しき(& 瞳下しき目から涙流るっぽい sitaru)当時若者文化最先端だった造語表現碑文は明治維新後の旧仮名遣い文(所謂 変体仮名)短歌和歌です「旧仮名で志太し起(喜)→したしき」「旧仮名で知ら須→知らず」「旧仮名で可ゝ累→かかる」など..。ただ字体がかなり崩され、教育委員会併設してある解説文プレートで元の短歌和歌を知っていないと読めないみだれた変体仮名になってる筆跡..かつて平安時代に完成した国風文化で使われた殿上人公達達の雅び文学、読み読ませるため気持ち集中して整って書かれてる墨痕鮮やか華やかな物語本 古来宮中の変体仮名書体からは離れてて、戦国時代に全国各地で書きまくってた武将らの田舎育ち難読クセ字書体でもなく、感情で奔放にみだれ髪が散り崩れた感じな変体仮名書体明治維新後花開いた日本文学文壇で全国若者に超人気な女流歌人の教養人、何でもかんでも私が新しくしてやるっ、って感じの筆跡(まぁ、筆力表現に行き詰まった現代書家が煽てられ独自色を出そうと文字をグチャグチャに崩して書いたイタくて辛いグチャ書体見るより、全然良くて..)