江戸の迷子、道しるべ。
一石橋迷子しらせ石標の特徴
東京駅近くに残る、一石橋迷子しらせ石標の魅力を感じることができます。
江戸時代の雰囲気が漂う、迷子や尋ね人の歴史を語る重要なスポットです。
時代劇子連れ狼のオープニングに出てくる場所で、見逃せない歴史的な名所です。
江戸時代に活躍したであろう迷子の告知板です。
1857(安政4)年に日本橋西河岸町の町人たちが資金を出し合って建立した石柱になります。江戸時代の日本橋から一石橋界隈は盛り場で非常ににぎわい、迷子や尋ね人がとても多かったようです。当時迷子はその町内が責任をもつことが決まりとなっていたため、隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑が建立されました。正面に「まよひ子のしるへ」、左面に「たつぬる方」、右側に「志らする方」と刻まれ、迷子の特徴を記した紙を貼って使用していたそうです。
実は八重洲、江戸時代から迷子が多い街でした。東京都の文化財になっているこの石柱は江戸後期に建てられたもの。その名は一石橋迷子しらせ石標といいます。日本橋も近く当時から栄えていた八重洲。人の往来も多く迷子が問題になっていました。そこで石の側面に迷子の特徴を書いた紙を貼り、それに応える情報を反対側に貼ることで迷子を見つけていたのです。同じものが浅草や両国にもありましたが、当時からのものが残っているのは、ここだけです。
2023年11月14日 訪問毎日がハレの日のような江戸の盛り場、そういう表現からも迷子は頻繁にいたのだろうなと思いますが、みんな無事親元に戻れたのか心配になりますね。
東京駅の直ぐ近くに、こんなモノが遺っているのです。江戸時代の生活の一部を感じさせる施設が、手に触れられるほど近くにあるのは素晴らしいことと思います。歴史が繋がっていることを感じさせます。
一石橋迷子しらせ石標江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋に かけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は 迷子が出た場合、町内が責任をもって保護するこ とになっていた。そこで安政四年(一八五七)、西河 岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石 碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸 町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から 町奉行に申請したものである。銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面 「志(しらす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏 面安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。 両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪み に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人 がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた 紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわ ば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の 「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来 の多い場所に同様のものがあった。 しかし震災や 戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のもの だけである。総高一七五・七cm(梓石一六三cm、台石一二〇 七cm)、棹石正面幅三六cm、同奥行二六cm、台 石正面幅七〇cm、同奥行六八・五cm。作者など は不詳である。
懐かしす小学生の時に何度も通った。
待ち合わせに便利。
いい雰囲気だしていますね。正面下の方の「不」の字のようなマークは、「几号水準点」といい明治になって測量のため刻まれたものです。
| 名前 |
一石橋迷子しらせ石標 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/tokyobunkazai/sekihyo.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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江戸時代後半、この辺りから日本橋にかけては盛り場で迷子も多く、当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていました。そこで安政四年(一八五七)、西河、 岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立されました。日本橋から一石橋にかけての諸 町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から、 町奉行に申請したものです。銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたといます。いわば庶民の告知板ですね。ここのほか、湯島天神境内の 「月下人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがありましたが、震災や戦災などで破壊され、現存するのはここだけです。