両国橋で大高源吾の歴史散策。
大高源吾句碑の特徴
大高源吾が和歌や茶道に秀でていたことに触れられています。
両国橋や百本杭の風景を楽しめる落ち着いた場所です。
大高源五の重要なエピソードを知ることができる史跡です。
2025年5月ウオーキングの例会の際に寄りました。大高源吾は赤穂浪士の一人。このあたり、赤穂浪士ゆかりの場所が多いですね。私は東京都ウオーキング協会(TWA)の会員です。TWAの例会で街歩きをしています。その際にいいなあと思った場所をスマホで撮影していましたが、グーグルマップにも投稿しようと思い立ちました。懐かしい場所を久しぶりに訪れてみると変わっていた!ということに新鮮な感動があったりします。この思いを皆さんと共有できたらと願っています。
両国橋と言えば大高源吾と宝井其角やもんな-☺️
赤穂浪士の一人、大高源吾は和歌もでき国文の素養もあり、茶道も堪能だった。江戸では大坂の呉服商番頭脇屋新兵衛と名乗って茶人山田宗偏の門に入り、ここでの茶会を通じて吉良上野介の在邸日を確かめることに成功。大石内蔵助に上申し十二月十四日の討ち入りを決める一翼を担った。
両国橋のたもとに大きな句碑が建っている。そこには「日の恩や忽ちくだく厚氷」と刻まれている。この句の作者は大高源吾。赤穂浪士の一人である。大高源吾は俳句をたしなみ俳号は「子葉」、俳句の師匠は宝井其角。だがその師弟関係というのは事実ではないようだ。後の創作にしては出来すぎてもいる。この句は吉良邸に討ち入った後に詠まれた句だといわれている。大高源吾と宝井其角は歌舞伎にも登場する。歌舞伎の演目「松浦の太鼓」の一場面。討ち入りの前日、大高源吾はさびれた体裁で煤竹を売って歩いているとちょうど両国橋のたもとで宝井其角と出会う。其角は源吾のさびれた姿を哀れに思う。別れ際に其角が「年の瀬や川の流れと人の身は」と投げかけそれに源吾は「明日またるるその宝船」と返した。後にそれは明日の討ち入りのことだとわかる。大高源吾には俳句を通じた人脈があり、当時ちくま味噌の創業者とも知り合いであった。討ち入りの後泉岳寺に引き上げる途中、永代橋のたもとにあるちくま味噌の前で赤穂浪士を迎え、甘酒を振舞ったという話も伝わっている。
四十七士の一人なので、吉良屋敷の近くに立てたのか?ここで詠んだのか?
面国橋と百本杭両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和五年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隔田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、救多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ抗の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。彩しい致の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戶時代の歌登伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、母頭に「柏瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この面が実は隅田川を降台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治十七年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治三十五年(1902)に幸田露伴は「水の東京」を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所例の岸の川中に張り出でたるところのをいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を約る人の多さは人の知るところなり」と富士見の度の南側から見られた様子を振っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記他について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で始どの杭は抜かれ、百本杭と同田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。平成二十三年三月 墨田区教育委員会。
トイレ有り、ベンチが1つ有ります。
凄く落ち着く場所。 行き交う船に手を振ろう。
すごい、蚊が監視してくる。
| 名前 |
大高源吾句碑 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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