春の桜と歴史の城跡。
国府台城跡の特徴
国府台城跡は里見公園内にあり、桜やバラが魅力的なスポットです。
周囲の緑豊かな環境と歴史的背景があり、のんびり散策を楽しめます。
無料駐車場が完備され、家族連れにも最適なアクセスが魅力です。
桜が満開でした!前日の大風にも負けず元気に頑張って咲いていました。
里見公園は四季折々のお花が咲いてます。すぐそばには江戸川の河川敷もあるので子供が小さな時にはよく行きました。春になるとさくらが満開でお弁当持ちのお散歩の人がたくさんいます。今回は雨がとてもいい香りでした。
北条氏康と里美の激戦地だが、いまはのどかにガーデニングされており、とても平和な感じです。本丸跡は花畑になっていました、、しかし周りを歩くと大きな川と急な斜面に囲われており、立派な平山城だったことが想像できます。
里見公園全体が城跡だったのでしょう。石垣が何ヶ所か見えます。その頃のものなのでしょうか?
国府台城跡のある里見公園は里見義弘が小田原北条氏を迎え撃った古戦場です。城跡の遺構は空堀、土塁が一部残っていますが、めぼしいものはありません。土止めの石垣ももちろん公園化されたときのもので、ちゃんと説明版に書かないと、戦国期のものと誤解されますね。投稿写真でも石垣の写真が多数ありますね。それなりに古格のある石組ですが、史跡としての価値はありません。第2次国府台合戦では里見氏は大敗して一族の里見広次や重臣の正木大膳ら多数の家臣が戦死したとされています。公園内には里見軍将士の供養塔が後世のものですが3基建っています。この戦いで里見氏は下総の大半を失い、ほぼ安房一国を領有するのみとなりますが、その後はやや勢力を挽回し、名門里見家の家名をよく保ちました。常陸の佐竹氏、下総の結城氏と共に北条氏の関東経略に抵抗して生き残った数少ない大名です。第2次国府台合戦の詳細な経過は一級の史料が皆無で、江戸時代中期成立の「関八州古戦録」などの軍記物に書かれているだけで、正確にはほとんど何もわかっていません。ここの説明版ももちろん信用できる史料に基づいたものではありません。里見方の死者5000人は全くありえません。里見方の動員兵力はせいぜい数千人ですから、全員討死したことになってしまいますね。里見広次や正木内膳の名も「江戸名所図会」などに見られるのみで実在を証明できません。後世の諸書に書かれた内容が全く同じですから、ネタ元は一つでしょう。また「正木内膳」ではなく「正木大膳」が正しいと思います。
すっかり公園になっています。奥の方に切りとうし、空堀らしきものはみうけられ、お城と関係ない石碑の元に石垣がありますが、多分違う時代の物だと思われます。地形だけは川沿いの崖の上で城跡の雰囲気はあります。
30台あまり停められそうな無料駐車場もあって、ぶらりと散歩を楽しむには最高の公園だと思います。春は桜、秋はバラ、花のシーズンは混むようですけど、東京近くにあって、気軽に自然を感じられるスポットです。
里見公園内に立派な城址碑があり、地形の起伏も随所に見られますが、ここは城としてより合戦場としての性質が強いです。
1478年(文明十年)扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎ)の太田道灌が国府台に陣を敷いた際に築いた野城が国府台城の起源とされる。道灌はこの国府台から境根原(さかいねばら:現在の柏市)へ出陣し、千葉孝胤(ちばたかたね)と合戦に及びこれを撃破した。のちの戦国期においても、この国府台城は下総平野を見渡す台上にあるため地の利を得るため争奪の場となった。戦国末期の1564年(永禄7年)には駿河の北条氏康と安房・上総の里見義堯(よしあき)が戦った「永禄の合戦」の舞台となった。里見氏はこの戦いに敗れて安房に敗走し、北条氏は国府台城を戦国期の城郭として改築した。国府台城趾は標高20~25mの下総台地の西端に位置し、現在の里見公園の中に土塁などの遺構が残っている。【記:2021年8月16日】
名前 |
国府台城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
047-334-1111 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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さくら🌸のある城跡巡り🏯で訪れました👍桜見と公園としての子連れの方で賑わっていました😄駐車場が川沿いまで下りないといけないのが、難点ですね~