月一回の坐禅で心を整える。
宝成寺の特徴
西船橋駅から徒歩12分で、アクセスが便利なお寺です。
1500年代後期創立の栗原藩成瀬氏の墓所があります。
月に一度の坐禅会で心静まる時間を体験できます。
葛飾土産/永井荷風に「石段をひかえた寂しい寺」というのが出てきます。葛飾駅(現京成西船駅)から葛羅の井へ向かう途中にあるようなので、このお寺は寶成寺であろうと思われます。「石段をひかえた」という表現が気になります。子供の頃を思い出すと、かなり年季の入った本堂の横手に墓地へ上る石段がありました。石段は、半ば、崩れており、少し、緑色がかって見えました。苔だったのかも知れません。子供達はお寺を遊び場にしていたのですが、雨で余程地面が濡れていない限り、石段脇の崖を登り降りしていました。その方が石段より安全に思えたのです。葛羅之井碑を発見(?)したときかどうか分かりませんが、荷風先生は寶成寺の前を通っただけではなく、境内に立ち入ってこの石段を見たのでしょう。今は手摺りのついた立派な階段になっています。
行きやすいとてもきれい。
設備が充実、利用者に親切!
ふと訪れたら、成瀬家代々のお墓があるとの看板。成瀬正成って、船橋界隈にいたことがあるのか、と驚いて参拝しました。非常に立派なお堂と、整備された墓地を持ち、無縁となって一か所に集められた墓石を見ると、江戸初期のいろいろな年号が見えます。それだけ歴史のあるお寺だったということでしょう。船橋市教育委員会の建てた説明板を引用しておきます。原文には丁寧にふりがなが振られていますが、ほとんど省略します。「市指定史跡 昭和45(1970)年5月20日指定 管理者 宝成寺成瀬氏の墓 附(つけたり) 墓誌現在の船橋市西部、旧葛飾町一帯はかつて栗原郷といわれ、江戸時代初期に大名成瀬氏の領地でありました。ここ宝成寺にある成瀬家の墓所は、船橋市で唯一の大名関係の墓です。成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、天正18 (1590)年に家康が関東に移封されるとすぐに栗原郷4千石を与えられ、その後関ヶ原の合戦などの武功で石高を加増され、大名に列しました。やがて家康の九男義直が尾張徳川家を創設すると付家老として後見役に任ぜられ、元和3(1617)年に尾張犬山城主となりました。正成の死後、犬山城主は長男正虎が継ぎましたが、正成は生前次男之成に栗原郷4千石他を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となりました。その後之成は39歳で没し、1歳の之虎が跡を継ぎましたが、その之虎も寛永15 (1638)年に5歳で夭折したため、栗原藩成瀬家は断絶しました。一方犬山の成瀬家は存続し、明治時代には子爵になり、子孫が犬山城を所有しました。宝成寺は江戸における成瀬家の菩提寺とされていたので、一族の墓の一部が営まれ、明治9(1876)年までの墓碑が残されています。墓地内には、之成とその殉死者3名の墓碑があります。殉死者を副葬した大名の墓は非常に珍しいものです。また、駒型の墓は第7代犬山城主正寿のもので、台石を除いた高さは約3.6m、幅90cm、厚さ40cm余りで、県内では最大級の墓石です。昭和44(1969)年に正寿の遺骨を国元の白林寺に移すため墓石の下を発掘した際、正寿の墓誌が出土し、その後墓地の整理を行った際には、正寿の兄成瀬信濃守正賢の子である成瀬鍋吉の墓誌が出土しました。この二つの墓誌の存在は非常に稀であり貴重なものです。船橋市教育委員会」
きれいで雄大なお寺です。
良いお寺です。
西船橋駅から徒歩12分位、茂春山 宝成寺 曹洞宗(禅宗) 御本尊は宝冠釈迦如来、創立年月は不詳、天正年間、1500年代後期とされます。宝成寺のホームページより主な所を抜粋しますと次のように説明されています。宝成寺は、戦国武将の成瀬正成公が領地内にあった法城寺を菩提所と定めたことから、城の字を成瀬の成字に、法の字を寶字に替え、宝成寺と改めました。栗原藩成瀬氏について成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、軍功を重ね、天正18年(1590年)に家康が関東に移ると栗原郷4千石を与えられた。その後、正成は関が原の合戦においても軍功があり、境奉行などの職を歴任し、石高を加増されて大名に列した。家康の子義直が尾張徳川家を創設すると、そのお付家老として後見役に任ぜられ、元和3年(1617年)には尾張犬山城主となった。正成は寛永2年(1625年)、江戸で没し、栗原本郷の宝成寺で荼毘に付され、後に日光に改葬された。正成の死後、犬山城主は長男正虎が継いだが、正成は生前、次男之成に栗原4千石を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となった。その後は之成が寛永11年(1634年)に39歳で没したため、わずか1歳の之虎が跡を継いだ。その之虎も4年後の寛永15年(1638年)に5歳で夭逝し、栗原藩成瀬家は断絶した。一方、犬山の成瀬家はその後も続き、明治時代には子爵となった。宝成寺は、江戸における成瀬家の菩提寺とされていたので、栗原藩断絶後も一族の墓が営まれ、明治9年までの墓碑が残されている。尚、境内には市指定文化財(史跡)『成瀬氏の墓 附墓誌』の掲示板が設置され、一部次のように記されています。墓所に入り南側の駒型の大きな墓は第七代犬山城主正寿のもので、県内最大級の大きさである。西側にある駒型の墓は之成のもので掘杏庵の筆になるという字を刻している。ほかに之成の殉死者三名の墓もある。昭和四十四年に正寿の遺骨を犬山市の白林寺に移すため墓石の下を発掘したときに、その墓誌が発見された。また、その後、墓所の整理・縮小を行なった際、正寿の甥の成瀬鍋吉の墓誌も発見されている。一九九二年三月。
月に1度の坐禅会に参加させて頂いています。どなたも気軽に参加出来ます。坐禅後、法話が有ります。
あいにくの雨でしたが、掃除が行き届いた境内です。
名前 |
宝成寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
047-336-1711 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.2 |
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此の寺に実家の墓が有ります❗