源頼朝も訪れた青鳥城の魅力。
青鳥城跡の特徴
青鳥城跡は本郭、二ノ郭、三ノ郭があり、構造が見事です。
平安時代までさかのぼる歴史的な伝承が残っています。
空堀や土塁が良く遺っているため訪問価値が高い史跡です。
2019/1/13おおどり城と読む。開発によりかつて広大だった城域の大半は壊滅しており、わずかに主郭の北側部分が遺っている。主郭であった畑周辺を頑張って踏査すれば、いろんな発見ができ、想像が膨らむ城跡である。
案内板がありますので、概略を知ることができます。県指定史跡 青鳥城跡昭和9年3月31日指定城跡は東松山台地の南縁部に立地し、都幾川の河岸段丘を南に見下ろす所に位置します。城郭は本郭と二の郭及び三の郭から成り、史跡の指定範囲は本郭と二の郭部分で、土塁・空堀・水堀が昭和47年の発掘調査で確かめられています。その規模は東西約550m、南北約300mを測ります。二の郭の土塁には城を守るために、北側の中央部でクランク状に折れ曲がる折郭(おりひずみ)が認められます。三の郭は一部が残存し、二の郭の外側へ同心円状に拡がり土塁と堀が築かれていました。この城郭は多曲輪形式といわれています。城郭の配置から築城の順序は、本郭を最初につくり、その後に二の郭と三の郭が増築されたとみられます。この築城方法は嵐山町の菅谷館跡と類似しています。築城時代については「源平盛衰記」に源頼朝が武州月田川のはた青鳥野に陣をとる(寿永2年・1183年)とあり、本郭は12世紀末(平安時代末期)には築城が明らかです。天正18年(1590年)前田利家の軍に落城し、16世紀末に廃城となりました。築城当初の居城者は定かでありませんが、「妙昌寺縁起」には建武元年(1334年)に青鳥城主藤原斎心入道利行がみえ、後北条時代には山田伊賀守直安が在城したと伝えられています。平成14年3月注意指定史跡敷地内の現状を変更する場合は、許可を必要とします。東松山市教育委員会。
南側の民家の脇から侵入します。方形の本丸?曲輪は削平されて、畑になっていますが、土塁で囲まれていて、その外側は空堀で囲まれています。最初、東側から北側に、侵入できるところを探りましたが、なかなかなの防御能力にて、入り込むことができませんでした。すぐ私有地につき立入禁止にしてしまう昨今、この土地の所有者に感謝しつつ、史跡として立派な城跡でした🏯
青鳥城跡は本郭とニノ郭と三ノ郭があります。関越自動車道がニノ郭の東側を北側に貫いています。元々は本郭だけの方形の館があって、その後戦国時代になって拡張して城郭化された見たいです。ニノ郭の土塁と空堀は立派です。東側のニノ郭の堀には水があり、ほとりに青石塔婆(虎御石)があります。ニノ郭の土塁の墓所の所にも石塔婆があります。青鳥城跡は埼玉県指定史跡です。
畑を囲むようにある土塁と空堀があり見事です。草も刈られて整備されていましたよ。口コミにあった養豚場の臭いは気になりませんでした。季節によるのでしょうか。入口がわかりづらいので道路側に入口の看板があるといいですね。
青鳥城の歴史は不明ですが、平安時代にまでさかのぼる伝承があり、寿永2年(1183)に源頼朝が在陣したという言い伝えもあります。室町時代には扇谷上杉定正とその重臣太田道灌も青鳥城に滞陣したとされ、古くから多くの人馬がこの城で駐屯したようです。戦国時代は松山城主上田朝直の家老山田伊賀守直安の居城となり、天正18年(1590)の小田原征伐では中山道から北条氏の支城を攻め落としつつ武蔵へ進軍した前田利家の軍勢が石橋の古城に陣取ったとあり、これが青鳥城とされています。以前は雑木が生え揃い歩きづらい城跡でしたが、久しぶりに訪ねたところ、草木が刈られて綺麗に整備されていました。
国道254沿いにひっそりとありました。
青鳥城跡254から一本入った所から入る。私有地なのでしょうか?他の方も言うとおりにアレな匂い半端ないです。空堀と土塁は残っています。
入り口がわかりにくく、民家の横を入って登ったトコに立派な石碑がある。土塁がナカナカの高さ♪裏にまわると堀がぐるーりとヤブってながらも見える。(^^ゞ主郭は畑あるあるだよん。
| 名前 |
青鳥城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/55/3776.html |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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城域のほとんどが私有地の為、二の丸と本丸の周囲のみ見学出来ますが空堀や土塁が良く遺っており、十分に訪問する価値の有る城趾だと思います。