月照寺で遠藤秀景を知る。
遠藤秀景君碑の特徴
金沢市野町にある月照寺内に位置する史跡です。
明治の政治家、遠藤秀景の功績を称えた碑です。
歴史好きにはたまらない、貴重な文化財です。
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明治の政治家。かなり影響ある方だったらしい。
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| 名前 |
遠藤秀景君碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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金沢市野町の月照寺(げっしょうじ)境内には、明治時代に石川県初の代議士として名を馳せた遠藤秀景(えんどう ひでかげ)の功績を記念する「遠藤秀景君碑」が立っている。地元でも派手な観光スポットとは言えず、知名度も高くないが、金沢の激動の明治期を知る上で貴重な歴史スポットの一つだ。遠藤秀景は幕末から明治という激動期を生きた人物で、安政元年(1854年)に金沢近郊の浅野村(現在の小橋町付近)で生まれた。幼少期は家業の質屋を手伝いつつ、剣術や武芸を好んだ壮士肌の人物だったという。20代前半からすでに地元の若者を束ねるリーダーとなり、西南戦争が勃発した明治10年(1877年)には、金沢でも挙兵しようと誘われるが、それを冷静に断り、その代わりに地元の若者のために剣道場を開いた逸話も伝わっている。秀景は政治家としても積極的に動いた。明治13年(1880年)に盈進社(えいしんしゃ)という政治結社を結成し、当時の石川県における自由民権運動の中核として、失業した士族の救済や地域振興活動を熱心に行った。その名は石川県内で知られるようになり、明治13年には県会議員となり、明治23年(1890年)7月には第1回衆議院議員総選挙で金沢を含む石川第1区から選出され、石川県初の代議士となった。こうして秀景は政治面でも地元に貢献した人物として高い評価を受けた。また、秀景は明治24年頃には地元で『自由之警鐘』という新聞を創刊し、言論活動でも自由民権運動の啓蒙に尽力した。ただしその一方、明治25年(1892年)の金沢市議会選挙では支持者の壮士を集め、対立候補を強引に威嚇するような騒動を起こしたという逸話も伝わっている。こうしたエピソードは、当時の政治がいかに激しいものであったかを物語っている。秀景の晩年は東京で実業界にも身を置きつつ、政界では犬養毅らと交流を持ったとされるが、政治の中心から徐々に離れていった。明治44年(1911年)5月16日、東京の自宅で亡くなり、葬儀は東京の青松寺で営まれた。やがて故郷金沢の月照寺に改葬され、現在もその墓が残っている。この遠藤秀景の功績を後世に伝えるべく、昭和5年(1930年)5月16日に月照寺境内に建てられたのが現在の遠藤秀景君碑である。碑の題字は、当時の政界や玄洋社の重鎮だった頭山満が揮毫し、発起人には地元の政治家・財界人を含む50人以上が名を連ね、犬養毅など中央の大物政治家も賛助者として協力した。このことからも、遠藤秀景が当時の政財界で大きな影響力と人望を持っていたことが分かる。碑が立つ月照寺自体も興味深い歴史を持つ寺だ。前田家の菩提寺として慶安5年(1652年)に建立され、かつて加賀藩主の庇護を受けて栄えた名刹である。明治時代に大火で一度焼失したものの、再建されて現在に至る。寺内には、江戸後期の山門や卯辰山から移築された33体の観音石像、歌人・柿本人麻呂ゆかりの「人丸観音」など、貴重な文化財が点在している。月照寺が秀景家の菩提寺だった縁で、この地に記念碑が建立されたということも、地元ならではの歴史のつながりを感じさせる話だ。遠藤秀景という人物は、現在の知名度こそ高くはないものの、金沢の近代史を深く掘り下げると必ず登場する重要な人物だ。激動の明治期、地元石川で若者を束ね、自由民権運動や政治活動に打ち込みながら、地元のために多方面で尽力した遠藤秀景。そんな彼の波乱の生涯や功績を静かに語り継ぐこの碑を訪れれば、観光地として華やかな金沢とは異なる、もうひとつの金沢の奥深さを感じられるに違いない。歴史を静かに語る、こうした石碑や寺社こそが、旅の記憶に深い味わいを与えてくれるものだ。