青柳倉記碑が語る歴史の深さ。
青柳倉記碑の特徴
青柳倉記碑は、飢饉対策のために建立された歴史的な碑です。
旧松川小学校敷地に位置し、三角形の石碑が印象的です。
青柳文蔵の地域貢献を物語る重要な文化財です。
青柳倉記碑青柳文蔵が飢饉凶作への対策と、飢えと病に苦しむ東磐井郡内の人々を救うため、天保二年(1931)に郷里である松川の中里の地に籾倉を建て、その前に倉の由来を書いて建てた碑である。この倉のお陰で打ち続く天保の飢饉に際し、救援の手が郡内一帯に及び、他で見られるような路傍での斃死はなかったという。文蔵はこのように救荒の大恩人であるばかりでなく、仙台に青柳文庫を創設した。我が国の公共図書館の始祖と仰がれる人である。
| 名前 |
青柳倉記碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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旧松川小学校敷地の一角に三角形の形をした石碑があり、そこには「青柳倉記」と刻まれています。青柳倉とは、青柳文蔵が故郷松川の旧松川小学校敷地内に備荒倉を建てたその建物の名前です。私はこの青柳文蔵という方を全く知りませんでしたが、調べてみると、仙台藩に蔵書二万五十巻と基金千両を献上して、我国最初の私費公開図書館を設立、また、青柳文庫の修理と東山一円の貧病者の救済に私費四千両を投資して青柳倉を設立するという、素晴らしい偉業をされた方だということを知りました。文蔵の名字は元々は小野寺であり、三男三女の末っ子でした。十六歳の時父の勧めで宮城県の米谷の医師に弟子入りしたが、見解の相違(一般の人には理解不能なこと)により辞めてしまい松川に帰ったが、父から「師に対する不遜甚し、師恩を知らず、父母に恥を与えたものは勘当である」と言い渡され、小野寺姓を名乗れなくなったため、父の生家の姓「青柳」を名乗ったという。その後江戸に出て下積み生活を何年か続け、偶然読みあさる書物の中で知った公事師(今で言う弁護士)の道を進んだ。やがて江戸有数の公事師となり、多くの蓄財と万巻の書を蓄え青柳文庫をつくり、郷里松川に青柳倉を建てた。青柳倉の中には籾四千石が貯蔵され、この籾を希望する者に貸し出し、秋には幾らかの利息の籾をつけて返させて青柳文庫を維持するための諸費用に充てようとした。そして凶作の年には無利息とし、大凶作の時は返納を免ずるというものであったという。時あたかも天保の大飢饉の年であったが、それに先駆ける事十年、青柳文蔵は飢餓対策とも受け取れる青柳倉を設立していたので、それにより東山一円の(当時四十六ケ村)の人々を飢饉から救ったので、救荒の大恩人と呼ばれたという。もしかしたら、私の先祖も助けられたかもしれません。