本庄城跡で歴史を感じる散策を!
本庄城跡の特徴
本庄城跡は過去の名残を感じながら散策できるスポットです。
約400年前に植えられた欅の木が今も残っています。
本庄市役所の裏に位置し、遊具や広いグランドも完備しています。
本庄城は本庄氏の居城。深谷断層上を流れる元小山川の南岸台地上にある。現在は城山稲荷神社の境内となっている。社殿がある場所は参道より一歩低い場所なので参道上に本丸があったと思われる。鳥居横に神社駐車場があるが隣の本庄市役所の公用車で常に2台分スペースが埋まっているので停められない可能性あり。本庄氏は児玉党に属する武士団。上野国の倉賀野氏・小幡氏や丹羽長秀・奥平信昌といった武将も児玉党である。桂昌院の本庄一族も同族とされる。
本庄城は本庄宮内少輔実忠が西暦1556年に築城されたようです。豊田秀吉の小田原征伐で落城後、徳川家康の家臣の小笠原信嶺が一万石で本庄城主になったが、その倅(婿)の小笠原信之の時に、下総古河城に転封になり本庄城は廃城になりました。
本庄市役所のすぐ東側にあります。本丸跡あたりに神社があり、入り口の鳥居のすぐ脇には駐車スペースもあります。神社の北側に流れている川に沿って、本庄市役所全体、神社の南東側にある八坂神社のあたりまで全て城の敷地内のよう。市役所の西側の道路を挟んだ先も城域かも。江戸時代に廃城になっていなければ、もっと遺構も残っていたであろうに、市役所になったり、宅地になったりでだいぶ破壊されているので、何となく堀の跡だとか、曲輪の跡かなーってわかる程度。まぁ当時の人からしたら、残そうなんて思わないですよね。仕方ない。神社の前と曲輪跡?の八坂神社にある大木はとても立派。神社の境内も本丸の敷地内だと思っていたら、どうやら本丸外側のよう。だから階段を下ったのか。見ているときは本丸なのに下るから、ちょっと混乱した。神社の東側に公園があるけど、城下公園という名前だったのは後で知りました。とりあえず城でした、な雰囲気は味わえるかなと思います。20~30分あれば、八坂神社あたりまで巡れる感じです。
本庄城址は現在は稲荷神社になっていますが、石碑や説明版などもちゃんとあります。まっすぐな参道を進んでいくと数メートル下がったところがあり、そこが本丸であったようです。現在は神社がありますが、その目の前に築城時に植えられたといわれているケヤキの木があります。ものすごい大きいですが、幹の中が空洞になっています。これはもう枯れてしまっているのではと思ったのですが、上の葉っぱを見るとまだ生き生きとしていました。地元で愛される場所なんだと思います。
2019/2/22城らしい地形を探して周辺を探索。なんとなく城を感じさせる地形は多くあるが果たしてどうなのかわからない。
パワースポット!お城があるわけではないですが、神社があります。
本庄城は本庄宮内少輔実忠によって築かれた城で、東本庄館からここに本拠を移しています。1567年(永禄10年)に北条氏邦の攻撃を受けて落城すると、以降は北条氏の家臣となりました。「小田原征伐」では当主の本庄近朝が小田原城の開城に際して自害したため本庄氏は滅亡し、その後、徳川家康が関東入封すると小笠原信嶺が城主となり城を改修しています。信嶺の死後、家督を継いだ信之が下総古河へ加増移封されたことにともない本庄藩は廃藩となり、城も廃城となりました。現在の本庄市役所の裏手にある城山稲荷神社が城址で、鳥居の手前に城址碑が建てられています。遺構としては市役所付近に土塁が残ってるらしいですが、よくわかりませんでした。
稲荷神社になってました。遺構はよくわかりませんでした。すぐ隣の工事現場の様な敷地に、土塁の様なものがありますが、よくわかりません。
城山稲荷の辺りが本丸跡だそうですが、明確に遺構は見受けられません。ただ周囲の路地に堀跡の名残が見受けられます。現在市役所に隣接している事もあって宅地化されていますが、城山稲荷から北側、元小山川に面した辺りの雰囲気は良いです。
| 名前 |
本庄城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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城山稲荷神社の鳥居の所に「本庄城址」の石碑があり、参道に「本庄城跡」の説明パネルが置かれていました。城跡と示された地点は、本庄市役所の裏側に当たりますが、城跡らしき遺構はこのあたりには見当たりませんでした。本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれ、徳川家康関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信景が、新城主となったが、慶長十七年(1612)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、廃城となったそうです。 江戸時代初期には廃城になっていたのですね。また資料によれば、城の区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域とのことで、現在の本庄市街の中心が収まるくらいの広さですね。城というと建物だけを思い浮かべてしまいますが、巡らされた堀など防御施設を考えると、このくらいの広さが必要だったのでしょうか。なお、戦国時代から江戸初期までのこの地域の支配については、「本庄城跡」説明パネルの他、城山稲荷神社の説明パネルにも詳しく説明されています。ただ、城主が移封された後の本庄地域の統治はどうなったか気になりました。調べてみると城主は置かれずに、幕府直轄領として代官所が管理していたそうです。また、代官所は本庄宿ではなく、忍代官所が担当したそうです。宿場という物流・交通の要衝と行政地区を分けて管理していたのですね。本庄城があった周辺地域は、その後、地元の有力者の屋敷や寺社が集まる“格式の高い区域” として使われ続けたそうで、それで、ここが本庄の中心として市役所が建てられたのかなぁと妄想しました(高崎市役所は高崎城址ですね)。以下は参道にあった「本庄城跡」説明パネルの内容です。本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。本庄氏は、山内上杉氏に属したが、禄禄十年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(1590)豊臣秀吉の関京攻より落城した。徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信景が、一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(1612)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。元禄十三年(1700)の城跡検地帳には三町四反五畝二九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。昭和六十一年三月 埼玉県 本庄市。