藤原頼長公の謎、供養塔探訪。
藤原頼長供養塔の特徴
藤原頼長供養塔は、悪左府と称された人物の供養塔です。
屋外に設置された解説看板が訪問者を迎えます。
平安後期の歴史を感じる貴重な文化遺産です。
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悪左府といわれた藤原頼長の供養塔だそうですが、頼長の墓の場所は不明だと言うことです。
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| 名前 |
藤原頼長供養塔 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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《解説看板》藤原頼長公供養塔平安後期の人。摂政関白藤原忠実の次男。若くして内大臣(十七歳)、左大臣(二十九歳)となり朝廷政治に辣腕をふるう。「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称賛された俊才であったが、崇徳上皇に仕え、「保元の乱」の謀主とされた。合戦の最中流れ失が首に刺さり重傷を負い、奈良興福寺まで逃れたが落命す。遺骸は「般若山のほとり」(般若寺南にあった般若野五三昧)に葬られるも、京都からの実検便が来て墓を暴いたという。(『保元物語』による)保安元年(1120)生まれ、保元元年(1156)七月十四日逝去。享年三十七歳。お墓は北山十八間戸の東方の位置だと思われるが、所在不明。