里見城で感じる歴史の息吹。
里見城跡の特徴
標高182mからの絶景は、歴史を感じさせる眺めです。
里見城跡には新田義貞ゆかりの伝承が残っています。
神社が点在し、鳥居の多さに圧倒されます。
手入れがされてなくて草ボーボーでしたね。
標高182m、県道から比高32m消えて倒れそうな標識がある😅畑の横から入ると説明板があった主郭は広~いナントカ 堀跡♪がわからなくもないナントカ 段郭♪もわからなくもない眺めはナカナカ (*‘ω‘ *)ゞ鳥居イッパイ⛩️⛩️⛩️神社サンあるある。
新田系里見氏の城跡と新田義貞が幼少期を育ったとかの言い伝えがあります。城跡は私有地で廃屋があります。まだ廃屋ではないのかな?遺構はそこそこ残っていますが草が繁っています。城跡は古い頃の形態です。
私有地です。城跡の看板がポツンと有るだけです。
城山神社の集会所横に車を停めアスファルト道に沿いに坂を上がりトタンの農機具小屋の横を通り抜けた先に里見城があります。
城跡は城山神社裏に有りここに車を止めて道なりの坂を登りきった右側に納屋がありここを右に曲がった所に里見城跡の主郭が有りましたが草に覆われていました(案内板)あり。
鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は、この里見の地で生まれ、幼名を里見小五郎といったという伝承があるそうです。里見氏は新田氏の支流でしたが、総領家に子が無かったことから、小五郎が養子となり、新田小五郎義貞と名を改めたのだそうです。里見の人々は義貞生誕の地として、いまでも誇りを持っているといいます(*^^*)
平安時代末期、上野国碓氷郡里見郷を領した新田義重の三男、里見義俊の居館であったと地元では伝えられている。結城合戦で、嘉吉元年(1441)4月、里見家基も結城城に立て籠もって討ち死にしたが、家基の子・義実は落ち延び、のちに安房に渡って白浜城を本拠に安房を統一、房総の戦国大名・里見氏の祖となったという。 永禄元(1558)年には里見河内が在城し、箕輪城の長野氏の配下となっていたが、永禄9年(1566)、武田信玄が西上州に侵攻、武田方の武将・小宮山らが里見城・雉郷城を陥とし、箕輪城・鷹留城の連絡を分断、箕輪城は九月二十九日に落城した。里見城はそれ以来廃城になったという。
名前 |
里見城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
2.6 |
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2024/10/20東側の城山稲荷あたりから城域。神社の上は畑と墓地になっている。その奥に主郭があり、周囲は土塁に囲まれているらしいが、雑草で全くわからない。とはいえ、南総里見氏の出自であり、新田氏を由来とする源氏の名族里見氏の本拠地であったと想像するだけで、胸熱。