かむとのじんじゃで神を感じる。
神度神社の特徴
大きめの木造社殿が魅力的で荘厳な雰囲気を醸し出す神社です。
神度神社は立山信仰に深い歴史を持つ特別な場所です。
かつての七堂伽藍や二十四坊の名残が感じられる神秘的な空間です。
ちょうど居合わせた男性の方が色々神社のことを教えて下さいました。てっきり宮司さんかと思ってましたが違ったようで…でも色々知れて楽しかったです。
かむとのじんじゃ 神度神 豊受気神立山権現 立山信仰 立山開山 かつては七堂伽藍 二十四坊もある社寺だったが上杉越中攻めにて衰退。
大きめの木造の社殿です。境内に巨木はないようです。
| 名前 |
神度神社 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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神度神社(かむとのじんじゃ)。富山県中新川郡上市町森尻。式内社(小)、旧郷社。【祭神】神度神 豊宇気神資料によると、飛鳥時代末期の大宝2年(702年)、佐伯越中守有若が創建したと伝わる。また、異説では、当時国司だった佐伯有頼が創建とも。有若は有頼の父。当社創建については、『和漢三才図絵』、雄山神社藏『立山小縁起』にも触れられている。大宝元年(701年)、文武天皇の夢に阿弥陀が出現し、「佐伯有若を越中の国司にすれば、国家安泰」と告げた。天皇はすぐに有若に勅命し、有若は嫡男有頼とともに、越中国へ赴いた。ある日、辰巳(東南)の方角から白鷹が飛来し、有若の腕に止まった。有若はこれを愛育し、有頼は父に請うて鷹遊びへ出かける。ところが、白鷹が逃げてしまい、探し求めたが見つからない。そこへ、森尻の権現が示現し、「辰巳の方角を尋ねるべし」と教えた。辰巳の山奥で、一人の老人に会うと、老人は「白鷹は、いま横江にいる」と教え、自分は「刀尾天神」であると告げた。有頼がさらに探し求め、奥へ行くと、熊に遭遇した。急いで熊を射ようとすると、熊は逃げ出し、玉戸の窟へ入っていった。有頼が後を追って窟へ入ると、そこには阿弥陀の仏像が置かれていた。仏像の胸には、有頼の矢が刺さっており、血が流れていたという。そこで、阿弥陀は「我は衆生を救済するため汝を待っていた。鷹は剣山刀尾天神、熊は我である。はやく出家して当山を開くが良い」と託宣した。これが、立山の開山となった。以上の由緒により、当社は町内で最古の神社であるばかりか、新川郡式内社のキーマンともされる。御祭神は、神度神あるいは神度剣とも、また豊宇気神を祀る。昔の御神体は国常立尊で、仏像に似ていたとも。当然、阿弥陀如来だろう。社号の由来は諸説あり、神度の剣が祀られていたため、あるいは越中と越後の国境に近いところから、神が渡るなどの説がある。年代はともかく、佐伯氏が当地一帯を支配し、当地の中心となる寺社を建立していったことは間違いないようである。佐伯氏が越中に入ってまず居住したのは、下新川の布勢で、ここには布勢神社がある。今でも、魚津市斉木村に佐伯と称する子孫があって、歴史ある名家。佐伯氏は布勢から森尻に来る間に、滑川の檪原神社を経て、森尻に社殿を建て、さらに立山町の日中に社殿を建て、最後に立山を開き、雄山神社を創立したと推定される。京都山科の隨心院文書の中から、佐伯有若の署名が発見されている。平安時代初期のもので、時代はずれるが、有若が実在の人物だったことが明らかになった。当社にはいくつか、馬を連れて供をするよう、氏子に命じる伝承が残されている。また、これとも関連して、社前の大スギが御神木として崇敬されてきた。往時は多くの社殿が立ち並び、神領3000俵、24坊の伽藍とも言われたが、戦国時代になり、しかし、上杉謙信の越中攻めの兵火に遭い、衰微したという。江戸時代には立山社・立山権現と称し、引き続き立山信仰と深い関係を保った。嘉永4年(1851年)再建の記録が残る。明治時代に入り仏式が廃され、明治6年(1873年)に郷社に列した。例祭は6月21日。なお、式内社「神度神社」の論社は他に、下新川郡朝日町宮崎の鹿嶋神社がある。とあります。参考として、神度剣(かむどのつるぎ)とは、日本神話に登場する神の剣で、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)が所持し、天若彦の葬儀の際に怒って喪屋(もや)を切り倒した十束剣(とつかのつるぎ)を指し、『古事記』では「大量(おおはかり)」、『日本書紀』では「大葉刈(おおはがり)」とも呼ばれる、神代の重要な剣の一つです。