前田高地の歴史を感じる。
賀谷隊本部壕の特徴
前田高地での戦いを感じることができる史跡です。
複数の隣地壕が残り、歴史を身近に体感できます。
入り口が私有地で立ち入り禁止なので注意が必要です。
(回想録に記載) 前田高地で志村隊、賀谷隊の共同で戦い中、(反射面戦闘)米軍の爆弾や攻撃時、潜んで待機していた複数の隣地壕!その場所を資料の元に中腹と北周を探索して、後に解明になるが、北断崖(平和之碑の平地)に6ヶ所の壕(うち一箇所は墓地私有地で東端の崖にある穴を石膏ボードらしき物で塞がられている跡があった。今の所不明で)更に中腹には五ケ所の陣地壕が今でも現存している。それに頂上にも縦穴が一ヶ所ある 。(交通壕とか) 日本軍は自然壕(ガマ)と他の壕では自然壕に加工して利用していました。日本軍は台上に(反射面戦闘)米軍が来攻時に飛出して、戦い中悲惨な接近戦、(弾薬が乏しい中、手榴弾や銃剣また作った竹槍で攻撃したと有る。)白兵戦、斬込みを夜間に掛けてピストン攻撃を繰り返し多くの尊い命を散らして悲惨な激戦地に成った。北斜面領域から為朝岩に掛けて、今では頂上部分の平地は全く無いが(平和之碑側の墓地区)北断崖の真上に平地と麓窪地は、当時は周辺にほ鋭く切り立った岩が点在していて)周囲に有る複数の洞窟を利用し、分散して潜んで戦闘を行っていた。又グスクの南側で、(中腹は 志村隊 本部壕で、小道を跨いで南斜面に蛸壺隣地が構築され、複数の小さなガマも点在して、日本兵は潜んでいたのであろう。回想録には記載が無いが、賀谷隊 本部の南側にも、志村隊本部の南側同様なタコツボ防御陣地が合ったと思われる!)現在 ここも砲撃で崩れて何もない。[(前田高地陣地壕群の概要)「反斜面戦闘」について。敵の砲撃による被害を最小限に抑えるため、敵が来攻する反対側斜面にあらかじめ陣地を構築しておき、敵が頂上を占領した後、反撃に転じて、歩兵同士の接近戦に持ち込む戦術である。したがって、反対斜面側の陣地は高地頂上近くにある事が望ましい。麓に在ると、頂上にたどりつくまでに大きな被害が出てしまうためである。麓に構築された壕は物資集積壕であり、麓にあるから各部隊への物資の搬出がしやすい事になる。前田高地頂上近くの中腹 部にあるこの壕群は戦闘壕であり、まさしく「ありったけの地獄を一つにまとめた。 戦場 の中核となる壕群である。]高地麓の壕には南北貫通壕は存在せず、貫通壕は、中腹と頂上にのみ存在する。特に賀谷隊 本部壕は戦闘指揮所で有り、為朝岩から西え進み 約80m程に位置する2番目の階段で、そこから右手には大きな岩が立っている。その裏に( H-口 )金網で囲っている豪がある。入口の内側区画、(部屋)に便所と風呂があった。(換気の為で)出口近くであった。(本来第63軍指令官風呂で)構築された坑道は爆風や火炎風に防御対策され、中はクランク形作るの坑道を構築されていた。又坑道の両側に丸太木で棚状に置かれ、(負傷兵が行儀悪くゴロゴロ寝転がって居たと記載が有る、)両坑道の中央に指揮官室が有り。今確認されている出入口は( H-口 )はここになる。もう一ヶ所は( I-口 )階段の下から小道を西向けて約9m辺りで、北向きの斜面奥にある。それに( I -口 )から北側に続く坑道は( M-口 )は特殊性を持った坑道で、頂上近くまで細い坑道が24度傾斜で続くが出口ではなく、先は行き止りで有るが。監視用覗き穴が構築され、約25m先の崖下に隣地を置く米軍の動きを監視して居た。戦後その断崖は採石されて、この穴( M-口 )まで及んで、断崖の中程に穴が開いている。現在断崖は台風で含む大雨の影響で、土砂崩れて穴の位置は地表こら確認する事は出来ません!(M-口の写真も投稿しております)又 頂上にもセメントで作られていた監視用、(銃眼も付いて居た)トーチカが有った。(松木謙治郎氏の残したトーチカのスケッチ 絵で)塹壕の道を進んで中へ入る。トーチカの全体を土で隠して擬装して居た。だが米軍の砲弾で跡形もなく吹き飛んで居る。その場所は崖側 近くで!今の地表面の真上と思われる。トーチカに上がる交通壕(通路)はH-口壕、入口側の側に今も残っていると云われている。[ 回想録一説を借りて引用した ]松木謙治郎氏『阪神タイガース松木一等兵の沖縄捕虜記』の回想録 には「石師団本部」即ち賀谷隊 本部を指し、洞窟陣地は「沖縄には一つしかない、セメントのトーチカがついた壕」であった旨が記されていた。このトーチカについて、松木氏はさらに次の様にも述べている。炊事班の兵士である私は早速本部壕の外側から登って上にある監視所の歩哨に任命された。土の急な階段を手すりづたいにやっと上にあがると、そこは頂上に作られたトーチカであった。厚さ1m 程あるセメントで固められた円型のトーチカで、四方に銃眼(監視窓)が付いている。こんな立派なトーチカは、沖縄で見かけた事は無かった。板で床を張った上に机があり、電話が備えられていて、宜野湾方面の戦線状況をいちいち部隊長に敵状を報告できる様に成っていた。 コンクリートは厚さが1m程もあり、床は板を張り、机と電話が備え付けられていて、その電話は洞窟陣地内の「部隊長」即ち、賀谷隊長と直接連絡できる仕組みに成って居たと言う。通信手段の確保は戦時の要であり、一戦闘部隊にすぎない、賀谷隊の防御施設としては余りにも立派な物である。この事もまた、賀谷隊本部壕が、本来は第62 師団司令部壕であった事を如実に示すものとなろう。[第62師団は前田高地が最前線になる際、危機に伴い62は師団は首里へ撤退し、入れ代わって守備していた第63旅団の指揮下にあった独立歩兵第12大隊 隊長賀谷與吉中佐となる ](北断崖の写真は投稿しています )このトーチカの存在を松木回想録以外から確認してゆこう。米軍写真の方で矢印が付され 「NEEDLE ROCK」 とあるのが、為朝岩の米軍側呼称で、 その右隣に同じく矢印を付されている「PILLBOX」 がトーチカである。概ね、為朝岩と、 その右の窪みの位置を合わせて並べた。2021年写真を撮影した当時、同所は浦添市による 岩盤補強工事が行われており、写真右側の一部区画の草木が刈り取られて、琉球石灰岩層の 地肌が露出している。そして、地肌露出部分のすぐ右側、草木が茂っている際部分に賀谷隊 本部壕北側斜面の壕口Mがある。両方の写真を比較すると、概ね、2021年写真の地肌が露 出している部分に 「PILLBOX」の位置が該当する様に見える。「PILLBOX」 は、賀谷隊本部壕の真上に合った事になる。米軍撮影写真を拡大して見ても 「PILLBOX」 その物は確認でき無いのだが、松木回想録と米軍撮影写真の「PILLBOX」 位置説明は矛 盾なく理解できる為、賀谷隊本部壕の真上にトーチカがあったと考えて誤りない。松木氏 はこの構造物を「監視所」とも「トーチカ」とも呼んでいるが、「四方に銃眼が付いている」 事、「電話が備えられて」いる事、その電話は司令部壕と直通できた事などから、戦闘用のトーチカと言うよりも監視所として構築されたものと思われる。賀谷隊本部壕内には壕の真上に通じる通路が見当たらない。しかも通常、壕内から壕上部の 施設に移動する際は、なるべく壕の掘削作業負担を軽減するため、垂直に坑道が掘られ、梯子や縄ばしごなどで登って移動するのが普通と思われる。松木回想録には 「土の急な階段を手すりづたいにやっと上にあがると」とあり、その坑道は、「階段」で「手 すり」があったと記されている。もし壕内にその様な坑道を真上に掘削すれば、坑道自体が非常に長 いものとなり、しかもその口は、敵が壕内へ攻撃する時の攻撃口ともなりうる。南側斜面で( 今見られる2番目の階段で右手に岩が立っ場所から裏手にH-口がある。その近くに高地頂上方向に通路のように続いている。(現在周囲の草を刈取らないと見る事は出来ない)賀谷隊本部壕から階段を下に降ると、直線で約23m西向け小道で斜面上に( I-口 )が有る。そして両方は賀谷隊本部の二つの入口で、中で繋がっている。( I-口 )この坑道だけは 真っすぐ北断崖へ(M-口 )伸びていた。その坑道は今も崖の中程に現存して居る。穴は頂上の端の崖近くにトンネルは伸びていたが、戦後に北側は大きく採石された事でこの穴まで及んでしまったのである。 日本軍は敗北状となり、米軍は頂上を占拠した後に各壕口を破壊して行ったと思われる。[ある…グーグルで前田高地の戦いを検索したら、この文章で米軍が一つの穴にガス弾を放り込んだら驚いた事に周辺の至る所の穴から煙が出て、地下トンネルがグスク全体に張り巡らせて、南側の麓の壕まで繋がって居たと書かれて居るが?事実と異なる文書も少なかれある?実際 生存者の回想録にはその様な記述は全く出てこない ]日本軍第62師団は宜野湾方面の前線の情報を収集する為の監視所として置かれたので有る。ですから、前田グスクは本来、大規模な戦場に成るとは想定していなかったのであろう。周辺の高い断崖が防衛の役割を果たすと考えられており、賀谷隊本部壕以外、最小限の隣地しか構築されていたのである。実際、激戦地であった嘉数高地では大規模な地下坑道が構築して張り巡らせていたのである。前田高地 中腹や麓にある壕群も石灰岩にあった自然洞窟に手掘り(つるはし)して拡張しただけである。エントランスにある南北貫通壕もその様な方法で構築されていた。この坑道は砲弾攻撃時、避難用として待機場所に使用していたのであろう![ 沖縄 本島で、北部方面は粘土や砂岩の大地が多く、中部から南部方面に掛けて琉球石灰岩大地が多く点在して居る。琉球石灰岩はサンゴ層の中には土丹と呼ばれ、 比較的軟質の泥岩や粘土が詰まっていて、石灰岩の外側は硬いが、洞窟内で軟質の層に沿ってツルハシでも容易に掘削して、拡張できた。その為、 沖縄には多くの洞窟が点在していた事から日本軍は容易に隣地壕を各地に短期間に構築できたのであろう。]
| 名前 |
賀谷隊本部壕 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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どうしてもいきたい場所でしたが入り口が私有地となっており立ち入り禁止の看板があり入れませんでした。おそらく私のような者が頻繁に訪れ迷惑になっているのでしょう。迂回路などご存知の方がおられましたらお教えください。