沖縄の歴史に触れるひめゆり。
ひめゆり平和祈念資料館の特徴
ひめゆり学徒隊について学べる貴重な場所です。
沖縄旅行では必ず訪れたい歴史的スポットです。
家族で再訪しても心に残る展示が揃っています。
今までの戦争資料館で1番つらかった場所。ひめゆり学徒隊の方々の遺品、写真、証言映像があります。ひめゆりの生徒たち1人1人にスポットが当たっており、何より生き残られた方々が当時の様子を語っているビデオが生々しい。口を閉ざしたくなるような辛い経験だったはずだが、よくこのようなインタビューで語ってくださり、後世に残していただけたなと思う。感謝と尊敬の意を込めて、心から手を合わし現在の平和の尊さを考えたい。
沖縄旅行では1度は来るべき場所です。悲惨すぎて涙がでてきます。館内にはお亡くなりになった方の顔写真とプロフィール、最後の様子が部屋いっぱいに貼られています。みなさまの御冥福をお祈り致します。
日曜日の10時過ぎ頃行きましたが、それなりに人はたくさんいました。皆、黙々と読んでいました。中は写真撮影NGでした。資料がたくさんあり、経験者の実際の声などを、動画で流しているのもあり、当時がどれくらい大変で悲惨だったかわかります。あの時代に日本の為に、戦ってくれた尊い人達を忘れないように今を大切に生きていきたいと思いました。
80年前沖縄は戦場だった看護動員された女子生徒の隊は九つあり、師範学校女子部生徒と隣にあった第一高等女学校生徒からなるひめゆり学徒隊はその一つ。ひめゆり学徒隊という名称はそもともと「ひめゆり会」という文芸クラブの名前で、沖縄の伝統的な花「ひめゆり(テッポウユリ)」にちなんでいるよう。1945年3月、沖縄戦が本格化する中で、看護要員が不足し、15歳〜19歳の女子生徒222名と教師18名がひめゆり学徒隊として日本陸軍の陸軍病院(主に南風原病院壕)に動員された。この学徒は、米軍の本島上陸の直前、3月23日から24日にかけて南風原陸軍病院へ配置された。この頃、師範学校、中学、高等女学校などニ千数百人の動員が始まった。男子は鉄血勤皇隊・通信隊、女子は看護隊として招集された。ひめゆり学徒隊は、南風原の陸軍病院で兵士の看護、手術の手伝い、死体の埋葬、南風原の丘を越えて食料の運搬(飯あげ)などを行ったが、戦況悪化により多くが戦闘に巻き込まれることになった。米軍が首里の第32軍司令部に迫る中、司令官牛島中将は5月22日に喜屋武半島への撤退を決めた。それに伴い、南風原の陸軍病院も南部へ撤退することになった。この日は沖縄の梅雨入りではなかったかと思われるが、梅雨のとても激しい雨の中、泥でぬかるんだ道で、米軍の艦砲による砲弾が降り注ぐ中を歩く撤退になったと伝えられている。撤退後、ひめゆり学徒は糸満市伊原の壕(第三外科壕)を中心に本部壕などでにも配置された。次第に南下してくる米軍の攻撃は激しさを増し、軍は学徒が足手まといになってきたこともあり、学徒を戦場に放り出すようにして解散命令を出した。安全な避難路もなく、砲撃や銃撃の中を逃げ惑う中で、生徒123人、教師13人が命を落とした。犠牲者の多くが自決や砲撃によって亡くなった。ひめゆり学徒の犠牲者のうちの80%が解散命令後に亡くなった。私たちは、糸洲壕の小池勇助少佐のように、軍の解散命令に従わず、多くの学生を助けた人物もいたことを覚えておくべきだろう。ひめゆり平和祈念資料館では、地上戦体験者の証言、遺品、当時の学校生活の様子などが紹介されている。ひめゆりの塔と資料館は、沖縄戦の悲惨さや、学徒隊や鉄血勤皇隊など動員された人たちや一般住民がいかに戦争に巻き込まれていったかを伝える平和学習の場となっている。これから先も、世界に対して平和を求めるメッセージを伝え続けてほしい。
| 名前 |
ひめゆり平和祈念資料館 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
098-997-2100 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 9:00~17:25 |
| HP | |
| 評価 |
4.6 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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娘が中3の時に家族で訪れ、25年経った今年に孫2人連れて再訪。改めて沖縄戦で犠牲になった民間人の事を見ていると込み上げてくるものがありました😭本土各地から修学旅行生がたくさん来ていましたが、生徒さん達は適当に眺めて通過するのが目立っていました😥やはり今の日本は、平和ボケ、安全ボケしているのが痛切に感じましたね😟