千波湖公園で遺構探検!
見川城跡の特徴
見川城跡では土塁や空堀がしっかりと残っており、歴史を感じられます。
千波湖公園からの登城が楽しめ、自然に囲まれた穴場スポットです。
入りやすそうな場所から見学してきましたが、道は整備されておらず自然そのままなので、ちょっとしんどかったです。💦 でも大規模な堀や土塁、そして虎口のような場所も確認できました。因みに、江戸城を築いた馬場資幹の四男の長幹が築城したと云われていて、城址碑は護国寺の道路向かいに建てられていました。
2025/8/9これは素晴らしい、大好物の堀と土塁のカーニバル。堀底道を歩くと圧倒されるレベル。規模は大きくないが、かなりはっきりと遺構が存在する。ただ、ここも蚊がとんでもなく多くてうんざりする。1秒でも早く逃れたくなる。虫除けスプレーは必須。
見川城は、鎌倉時代初期に水戸城を築いた馬場資朝の子・長幹によって築かれたとされ、のちに水戸城の支城として春秋氏が拠点としました。春秋石見守幹光が居城したと伝わり、江戸氏滅亡後も佐竹氏の支配下で支城として維持されたと考えられています。桜川低地に面する台地上に築かれ、三郭構造で一郭には土塁や折れを備えた空堀、虎口、枡形などの防御施設が確認できます。一見どこから入ればいいのかわからず、外からはただの藪にしか見えませんが、実は現在も遺構が良好に残っています。
築城の時期や城主について確実な記録はありませんが、15世紀後半に江戸氏家臣の春秋氏が居住していたことが分かっている。桜川低地に面する非高20メートルの台地の突端に築かれている。3つの曲輪から構成されている。また、城の西側には鎌倉街道下道が通っていて常陸国を縦断する主要街道沿いに築かれた城である。
土塁と空堀がとてもよく残っている。しかしものすごいやぶで本来の入り口は藪に埋もれていて目視では判別できないほど。
石碑の先の薮の中にガッツリ 空堀としっかり土塁が残っています。(折りが有る)土塁の上に朽ちかけた祠がありました。
見て分かるのは、入口にある標石。こんもりした土塁や堀跡らしき物があるかな。道や案内板等が整備されて無いので良く分からない。
千波湖公園から登城。上がった先に城址碑があります。
ネット上で探索断念されてる方があまりに多いので攻略のポイントとか。落ち着いていて偕楽園公園周辺の穴場的スポット、遺構もよく残っている。石碑のある好文橋方面から入ることはあまり勧めません。まぁ神社方面から入ることもできますが、そっちから入ってもヤブは凄いし、途中で断念されてる方の多くはこちら側から攻略しようとしたのだと推察します。言うてまぁ、荒人神社のとこの細い舗装道も堀底道なんでそこも遺構なんですけどね(笑)一番の見所であろう本郭空堀を見たいのであれば、オススメは三郭側から入ることです。竹林と言えばわかりやすいでしょうか。入る方面を間違えなければそこまで苦労はしませんよ。まぁヤブが凄いので遺構全体を見て回ることは困難ですが、本郭の堀は迫力あります。欲を言えば整備してほしいものですが、市街地で住宅地の真ん中でありながらほぼ完存なのは(広義の)偕楽園公園として管理されてきたからでしょう。これから先も数百年とこの遺構を伝えて欲しいものです。
| 名前 |
見川城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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城址碑は城外に建てられています。桜川駐車場からアプローチしました。「春秋橋」と「城址橋」という意味ありげな橋を渡ります。「城址橋」を渡ってすぐの階段を登り、右に折れて坂を登ります。左手崖上が城跡です。坂を登り詰めると一旦住宅地に出ます。まっすぐ行くと城址碑があります。Uターンして斜面に取り付くと、主郭北東角の虎口前の小郭にすぐに至ります。住宅地の中にあって、ここだけ雑木林となって遺構はとても良く残ります。アプローチも楽なのですが、中は未整備の薮です。主郭に関しては薮漕ぎするほどではないですが、下位の郭は薮が濃くなります。北側と南西に張出を持つ方形の主郭は大きな土塁で囲繞され、その外には空堀が囲い、一部は二重になっています。主郭土塁が高くて西側のII郭・III郭へのアプローチがわからなかったので、西側の土塁に登ってみると、小社の脇が少し凹んでいました。後世の改変かもしれませんが、対岸のIII郭側も土塁が切れており、引橋が架けられていたのかもしれません。南西張出部からの横矢も効く場所なので、あるいは、です。III郭・II郭と周り、堀底を歩いてみましたが、とても見事な城郭です。先人諸氏が薮蚊に言及されてますが、訪問が1月ということもあり、蚊は皆無でした。下草は少なめなので、低い薮だけでも刈ってもらえると助かるのですが、地理的に“子供の遊び場”になって遺構が壊される懸念もありますかね…難しいところです。城は南北朝時代に江戸氏家臣の春秋石見守幹光(河和田城主春秋尾張守幹安の二子)が城主と伝わりますが、それ以前の鎌倉時代に大掾氏の馬場資幹(水戸城主)の四子箕川四郎長幹が居城していたとされています。記録は以上ですが、遺構は明らかに戦国末期のものと思われる規模をしていますので、佐竹氏が水戸城に入ってからも利用・改造されたものと思われます。