額田城跡で歴史散策を!
額田城跡の特徴
鎌倉時代の築城、佐竹義直が手掛けた城跡です。
整備された遊歩道を散策しながら堀や本丸を楽しめます。
県内でも珍しい約77,000平米の大規模中世城跡です。
阿弥陀寺の裏手の方から少し歩くとアクセスできます。天気、散歩に適した季節に歩くとよいかもしれません。
建長年間(1249~1256)の築城との事。郭、土塁、堀等の遺構がはっきりと残されています。現在本丸は山林に、二の丸は畑と花壇、三の丸は住宅地へと変わっていますが散策路がしっかりと整備されているので、安心して見学できました。(^o^) それにしても……広いですね。💦
佐竹氏4代当主、佐竹義重の次男である佐竹義直が築城したとのことです。佐竹義直は額田氏と称するようになった。3男の義澄は真崎氏、4男の義高は岡田氏、6男の義綱は岡部氏として分家している。長男の長義は本家5代目を継いでいる。その後、本家にて11代義盛に嫡子がおらず、後継者に山内上杉氏の上杉義憲の名前が挙がり、後継者問題から一族巻き込んだ内乱が勃発します。この内乱で山内上杉氏を佐竹氏本家に入れることに反対していた額田氏は滅亡しました。その後、額田城には佐竹氏重臣の小野崎通重が入城し、小野崎額田氏を称するようになる。しかし、小野崎額田氏はその後佐竹氏本家に歯向かい伊達氏に内通していたことから佐竹義宣に攻められ落城した。今も昔も身内同士で揉めるのは変わりません。はい。そんな歴史ある額田城ですが、現在は城址公園として整備されており見学がしやすいです。整備されているが、遺すところは遺しており好感がもてます。駐車場も3ヶ所位かあります。
遊歩道が整備されており(傷んでいる箇所も多々ありますが)堀の底や二の丸、本丸と様々に散策できました。
額田城は約340年間額田地区を中心として久慈川を以南、および久慈川を挟んで君臨した。170年を佐竹分家として、後半170年を佐竹家臣として従ったのであるが独立性の強い巨大な勢力を維持してきたのである。その大半が宗家との対立であった。佐竹氏時代は分家の統括的位置にあったし。小野崎氏時代は江戸氏とともに佐竹氏、石神氏とあたり、最終的に伊達氏との結びつきが強まったりしてまさしく戦国時代をいきぬいてきたのである。最初の城主は佐竹義直。佐竹5代義重の第2子で幼名を伊豆王丸、字名は弥次郎または三郎と言い額田に居住し、額田氏を称した。その子孫の義兼は南北朝時代に本家貞義に協力し、足利尊氏に従い戦死、昌直が後を継ぐ。初期は出城的存在であったが領域の拡大により一族の密議の場と変わって10代義亮の時、山入与義(やまいりよりよし)とともに籠ることになる。佐竹惣領家の義盛が死んだ後、上杉憲定の次男で憲基にあたる竜保丸(義憲)を養子として迎え、義盛の娘と結婚させた。山入与義は他姓の義憲が家督を継ぐことに反対し、山入一族、額田氏らの佐竹一族や国人からなる山入一揆を起こし、惣領家と争った。惣領家は鎌倉公方、山入方は室町幕府がついた。応永30年義憲は鹿島、行方諸族を率い、額田義亮を滅ぼし額田城は陥落した。その後義憲は額田城に小野崎通業の孫、通重を入れ、額田氏を継がせた。小野崎2代目は江戸氏から養子を迎え、通栄彦三郎が城主となる。そののち照通まで小野崎氏は7代続き、1591年佐竹義宣に滅ぼされるまで7代170年間額田を治めることになる。
昔の様子が想像できる良く整備された城跡です。
阿弥陀寺の駐車場に車を停めて見に行きました。歩道がありますが、雑草が伸びたり崩れたりしてたり、ベンチが草に覆われていて余り整備されてません。二の丸跡の近くに砂利敷きの駐車場があります。
かなり昔の城跡なので、土塁と堀くらいしか面影は無いです。
けっこう整備されていますし、駐車場🅿️もあります。トイレも近くのコミュニティセンターにあります。
名前 |
額田城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
029-298-1111 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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