大宝、玉之浦へ歴史の道。
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| 名前 |
旧たま丸乗船券売場 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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昭和30年代初めころ、幾久山~中須、布浦方面から大宝や玉之浦まで車が通れる道はまだまだ開通しておらず、おそらく「奈切」辺りまでで行き止まりでした。もちろん折口トンネルや中川トンネルも開通していません。旧登本酒店は、町営船たま丸やバスの待合所となっていて、店内に乗船券売場の窓口がありました。店内窓口となる前までは、お店の正面入口左側の壁に窓口があったと登本酒店のお母さんに教えてもらいました。「たま丸」は登本酒店前(中須)~笹海(大宝)~立谷~玉之浦を結んでいたのです。中須から玉之浦まで車が通れる道が開通していない時代、重要な交通手段でした。引き潮のときは、登本酒店前の堤防にたま丸を着けることができなくなるため、奈切(現在の「奈切口」)のバス停付近で乗下船していたということです。このことも登本酒店のお母さんから教えてもらいました。奈切口バス停前辺りに古い堤防が今も残っていますが、引き潮のときにたま丸を着けるためのものだったとわかりました。昭和37年8月13日、宮本常一は、名切(ママ)のバス停でバスを降りて、第二たま丸に乗船し、笹海の船着場で下船、そこから歩いて大宝の集落に入り、大宝寺で古文書と応安在銘の鐘を見聞しました。ちょうどお盆の入りで、バスや第二たま丸は、故郷に帰る者でいっぱいだったと宮本は綴ってます。大宝の漁業組合で玉之浦の山下さんから「いまチャンココ(ママ)をやっている」との電話連絡を受けた宮本は、笹海の港から一旦、中須に戻り、玉之浦行きに乗船して、今回の旅の目的であったチャンココ踊りの見聞に行きました。そのルーツを探っていたのだと思います。P.S.・このコメントは25/02/09に最初に投稿しました。少しづつ加筆~修正していきます。・かつて、福江島内の浦々を結ぶ道路がまだ整っていなかった頃、中須の旧登本酒店が交通の要所で、人の交流があった場所だったことを知る人はどんどんいなくなって、忘れ去られようとしています。・このときに就航していたのは「第二たま丸」で、中須~大宝~立谷~玉之浦を結んでいました。・この時代、玉之浦大橋はもちろんまだ架かっていません。「第一たま丸」は、荒川~向小浦~玉之浦を結んでいました。・いつの日だったか、登本酒店を訪れたとき、荒川、小川、中須からいらしていた3人の地元のご年配の方々とお母さんと楽しく談笑されてました。私も地元の皆さんと一緒に懇談させていただきました。・昭和27~28年、大宝丸が中須~笹海間を結んでいたということです。・「五島バス40年のあゆみ」によると、中須から大宝までバス路線が延長されたのは、昭和31年12月21日と記録されていますが、宮本が訪れた昭和37年8月時点では、中須~大宝~玉之浦間の車が通れる道路は、まだ整ってなかったようです。懇談の中では、昭和40年代に大宝までバスが通れるようになったと聞きました。もしかすると昭和41年12月21日の間違いでは?と思いました。・宮本が訪れた1か月後、昭和37年9月に福江大火が発生しました。大宝の消防団が福江入りして消火活動に加勢していますが、消防団員は、大宝の港から船で移動、大浜に上陸して火災現場に向かったと、三重から大宝に嫁いで来られたというご婦人から教えてもらいました。やはり陸路はまだなかったか、大勢の消防団員の迅速な輸送には、陸路より船による海路の方がよかったのかもしれません。・私も宮本常一と同じように、笹海の港から大宝集落の入り口まで歩いてみました。途中、偶然にも「その方のお父様が、旧たま丸に機関士として乗船されていたというご年配の方」にお逢いして話を聞くことができました。・宮本は「奈切」を「名切」と勘違いしているようです。おそらく宮本はメモに「ナキリ」と書き残し、原稿を起こすときに「名切」と取り違えたのだと想像しています。宮本はトンツー、すなわち電信通信術を修得していましたので、聞き書きには、常日ごろからカタカナ速記でそのようにメモをとっていたのです。・玉之浦では「チャンココ」ではなく、「カケ」と呼んでいたと思います。・昭和37年8月13日、宮本常一は、玉之浦でチャンココ踊り(ママ)を見聞して、当時の唐津旅館に泊まっているようです。翌日は第一たま丸で荒川を訪ねています。・旧登本酒店の建物は築80年以上とお母さんから教えてもらいました。旧店内の乗船券売場窓口の写真があります。見つかったらアップします。←見つかりました!・土間で奈良 御所の三光丸の広告が入ったレトロで大きな乾湿度計や福江海上保安署長から長きに渡り海上交通の安全に貢献したことを称えたお母さんあての感謝状など店内に飾ってありました。・当時、登本酒店に三光丸の薬売りが来ていたそうです。船酔い止め薬を余分に置いていったということです。大宝には今でも来ていると聞きました。・乗船券売場窓口は木造で年季が入り、碍子を使った屋内配線が残されて、何かしら昭和の時代を懐かしく感じさせる風合いでした。・確かこの懇談のときに、ご年配の方から、牛売りのため大宝から福江まで、牛を牽きながら歩いていた… という話を聞きました。まだ暗い0時に牛の競り市に間に合うように大宝を出発して、朝7時頃に、幾久山~上の平を過ぎて、二本楠に抜ける峠(おそらく折口トンネルのある山頂付近)にたどり着いていたそうです。奈切から大宝まで車が通れる道はなかったけれども、人や牛が通れる道はあったのです。忘れ去られようとしている貴重な話を聞くことができました。・宮本常一の「私の日本地図 五島列島」の裏表紙にお母さんから登本酒店のスタンプを捺してもらい、みなさんと一緒に写真を記念に撮らせてもらいました。私が登本酒店を訪ねてお母さんに会い、聞き書きをしたという証です。・いまから63年前の昭和37年8月13日、若き日の登本酒店のお母さんは、旧たま丸乗船券売場の窓口で、きっと宮本常一に乗船券を手渡ししていると思いたいのです。日本の、西日本の、九州の、西九州の、長崎県の、五島列島の、下五島の、福江島の、五島市の、玉之浦町の、中須の、登本酒店の、「一所懸命」に地域に貢献してきていらしたひとりの、お母さんからの聞き書きを「実践」して、柳田民俗学や折口民俗学とは時間軸が相反する未来指向の宮本民俗学、渋沢民俗学の真髄が少しだけわかったような気がします。宮本民俗学では、柳田民俗学で切り捨てられたであろう庶民、民衆、ひとりひとりの歴史に向き合い、庶民、民衆のひとりひとりが地域の伝統や文化や歴史を少しずつ創り、延いては日本社会を造りあげているのだと気が付つかされるような思いです。登本酒店のお母さんもそのひとりだと強く思いました。宮本を奈切まで運んだバスの運転手、第二たま丸の船長や機関士、福江大火の現場に駆けつけた大宝の消防団員のひとりひとり、三重から大宝に嫁いでいらしたご婦人、大宝から福江まで牛を牽いた牛売り…ひとりひとりの歴史が重なりあって、関わっているのだと思いました。そして、根源を求めて過去にさかのぼるだけではなく、全国津々浦々を何度も訪ねて歩き、過去から現在までの移り変わり、変化から未来を見定めて、これから先の庶民、民衆、ひとりひとりの幸せを願って、宮本常一は、歩いて、見て、撮って、聴いて、書き残して、伝書鳩のように施策を伝えてきたのだと思います。主流になるな、傍流であれ。決して急ぐことはない。多くの者が見残したものの中にこそ、大切なものがある。旧たま丸乗船券売場は、忘れ去られようとして、多くの者に見残されようとしている大切なもののひとつだと思います。そして、渋沢敬三は、本当は自身でやり遂げたかったことを宮本常一に託したのだではと私は思っています。玉之浦の「旧中村旅館跡」や「田尾木場(一ノ川)のホタル」も一読いただければ嬉しいです。