歴史が息づく、下り松の弁天社。
下り松の弁天社の特徴
戦国時代に長宗我部氏の焼き討ちを受けた由緒ある場所です。
地元でイボ神さんと呼ばれる信仰対象です。
下総国から勧請された弁天様を祀る歴史的な社です。
昔から、イボ神さんと呼ばれていました。何十年も前、子供の頃、膝にイボが出来て手術で切り取りましたが、傷跡のすぐ隣にまたイボが次々とでき始めて困りました。おばあちゃんに話したところ、傷跡の残る手術をしなくてもよかっのにと、私の両親は叱られていたように思います。傷跡が残る手術ではなく、イボ神さんにお参りしなさいという事でした。当時おばあちゃんに聞いた時は、小豆を年の数だけ先に持って行きお供えしてお参りしました。その後、1ヶ月後にイボが、ポロリととれました。とてもびっくりしました。お礼参りもきちんと行きました。その後、家族の知り合いにイボが出来たと聞くと、その話をしました。その度に、不思議と同じようにイボがとれ、本当にビックリしています。歳をとってイボがまたできた事で、また思い出してお参りにきました。当時と、見た目の周りの環境がずいぶん変わっいました。あずまやも出来ていて、地域の方の憩いの場にもなっているんだなぁと温かみを感じました。当時は、みんなイボ神さんと呼んでたので、イボ神さんで検索していたら、なかなか場所が、わかりませんでした。
下総国から弁天様を勧請し、昔から地元で大切にお祀りされていましたが、戦国時代に長宗我部氏の焼き討ちに合いました。その後本覚寺として再興され、後に富田中村の鎮守である弁天宮となりました。明治に入り、厳島神社としてお祀りされ、弁天様として今に至ります。この社はいぼ神様としても近隣に知られています。境内にはいぼにつけると治ると言われる湧水があり、治ったらお礼に年の数だけ小豆をお供えすると言い伝えがあるようです。昭和の時代には七葉複弁蓮花文鎧瓦が2度出土し、旧南海道についての古文書の記録からみて、当地にあったと言われる下り松廃寺の域内と想定され、周辺の遺跡の遺構や出土物からもこの弁天社付近が旧南海道の松本駅であると推定されています。
| 名前 |
下り松の弁天社 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.7 |
| 住所 |
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「さぬき市:下り松の弁天社」下り松の弁天社は、香川県さぬき市大川町富田中に鎮座する小さな社で、地元では「下り松の弁天さん」として親しまれています。中世には松林と沼が広がる地だったと伝わり、下総(しもふさ)からの開拓者が弁財天を祀ったのが起源とされます。1667年(寛文7年)、松平頼重により多くの神社が統合されるなか、この社だけは村の鎮守として守られました。社殿裏では清らかな湧水が絶え間なく湧き出し、江戸時代から農業用水や湧き水信仰として重宝されてきました。特に、その水でいぼに触れると治るとされ、治癒した人は「年の数だけ小豆を供える」という風習が残り、現在でも「いぼ神さん」としても呼ばれています。【説明看板抜粋】「下り松の弁天さん」ここに祭られている二基の社殿は、左側が弁財天宮で、福徳賦与の女神、右側は和合繁栄で夫婦円満、家族円満の神様である。さぬき市大川町富田中二八三一番地、下り松地区の南端に位置する。中世の頃、この地は「四方荒地」、沼多く葦茂り、鶴の棲息し、その数知れず、また、周辺に松の大樹が地を覆い林となす。という。当時、下総の国より始祖、この地に来て弁財天を祭り寺を建てた。屋敷は数ヘクタールに及んだと伝えられる。天正十一年(一五八三年)五月、土佐の武将長宗我部元親が時の勢いを借りてこの地に侵攻し、附近の神社や民家をも焼き払ったと伝わる。時の寺は、戦火とともに無くなったが、寛文五年(一六六五年)弁財天宮は村中の手で再興され、虚空蔵院の末寺本覚寺が建立された。寛永十九年(一六四三年)に讃岐に入封された松平頼重公は、寛文七年(一六六七年)に領内各地に点在する神社を「寄せ宮」され、富田中村の鎮守として弁財天宮は「残し宮」とされた。敷地北の堀の涌水は、四百年の歴史を目のあたりに見ながら、絶えることなく滾々と湧き出る。その頃から、水を頂いて「いぼ」につけて治す民間信仰が始まった。治ったお礼に年の数だけの小豆をお供えすると言い伝えられている。明治二年(一八六九年)弁財天宮を厳島神社とし、今も弁天さん(いぼ神さん)として親しまれている。後に昭和十年(一九三五年)、昭和五十年(一九七五年)に瓦が発掘されたこの地は、奈良時代の「七葉複弁蓮花文軒丸瓦」が相継いで発見された。下り松廃寺を確し、南海道「松本の駅」が推定される場所でもある。(以上)