赤穂義士ゆかりの圓隆寺で。
原惣右衛門夫婦の墓の特徴
歴史ある墓地として、多くの訪問者が集まります。
忠臣蔵で有名なとうかさん圓隆寺に隣接しています。
江戸時代前期の武士、原元辰の供養墓です。
原 元辰(はら もととき、慶安元年(1648年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は惣右衛門(そうえもん)。赤穂城明け渡し後は大坂に住み、大石良雄の御家再興運動を補佐し、同年9月には仇討ちを主張する急進派を説得するため大高忠雄らと江戸へ下った。12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、大石良雄を助けて司令にあたった。邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際は駕籠に乗せられている。切腹の折、3歳だった息子は出家して「春好」と名乗る。享保8年(1725年)広島藩浅野本家に250石にて召抱えられる。菩提を弔うための供養墓が福昌山 圓隆寺にある。
| 名前 |
原惣右衛門夫婦の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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----説明文より-----原惣右衛門元辰夫妻供養墓「とうかさん圓隆寺」は忠臣蔵で有名な赤穂義士ゆかりのお寺でもあります。日本精神の華と世界に知られている赤穂義士「原 惣右衛門 元辰(はら そうえもん もととき)」とその妻は「とうかさん」を熱烈に信仰しておられました。1703(元禄16)年2月4日に惣右衛門切腹後、広島藩第五代藩主浅野吉長は惣右衛門の妻子を広島に呼び寄せ、嫡男「原恕八郎辰正(重次郎)」は広島藩に召し抱えられる事になりました。想右衛門の妻も熱心に「とうかさん」を信仰していたことから1733(享保18)年7月4日に妻が亡くなると、惣八郎は両親の墓を当山に建立し供養されたのです。その後、想八郎をはじめ子孫の墓が当山に建立される事となったのです。しかし、1945(昭和20年)の原爆投下後、都市区画整理法により寺領を大幅に縮小した当山は、墓地を再建するにあたり一家に墓石一基と定め、原家も例に漏れず原惣右衛門ご夫妻の仏石を原家の墓と定め原家の子孫の方々が埋葬されています。