新田義貞の勝利!
分倍河原古戦場の特徴
新田義貞と北条泰家の重要な合戦が行われた古戦場です。
東京都指定旧跡の分倍河原古戦場には歴史ある石碑があります。
鎌倉街道を南進する新田軍が勝利した場所として知られています。
上野国から鎌倉を目指して南下した新田義貞が何度かの合戦の末、ここで北条泰家を打ち破り鎌倉突入に至った歴史上非常に重要な都地である。古戦場碑には、傍系から新田を名乗る方の書がかけられていたが、それ以上にここで行われた合戦に思いを馳せるほうがいいと思う。ただし当時の面影は一切残っていない2021.4.10再訪2022.8.19
東京都指定旧跡の分倍河原古戦場の石碑があります。また、東京都教育委員会がその由来の説明標識を設置しています。
石碑しかありませんが、この戦い自体はとても重要なものです。元弘の乱の際に、新田義貞軍が幕府軍に壊滅的打撃を与えた分倍河原の合戦の古戦場碑。この合戦は周辺の小学校の校歌にも出てきたりします。
石碑以外には何もない。まあ野戦跡は、鎌倉どころか戦国も幕末も大体こんな感じなので仕方がない。逆に言うと、後世に分倍河原がかつて戦場であったことを伝える上では重要な石碑。
ここ分倍河原は、新田義貞公(源義貞)が、鎌倉北条氏討伐の為に、戦った古戦場で、半幕府軍、新田義貞軍の勝利に、終わった、古戦場です。とても良かったです。
新田義貞頑張りました。
分倍河原の戦いは、鎌倉時代の元弘3年(1333年)に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原で北条泰家公率いる鎌倉幕府勢と、新田義貞公率いる反幕府勢との間で行われた合戦で、奇襲を仕掛けた新田勢が勝利した戦いと伝えられる。
兵どもが夢の跡。夢のまた夢。
新田義貞が北条軍に一度敗れた場所。新田川沿いの閑静な緑道になっています。散歩にはもってこい。
名前 |
分倍河原古戦場 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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観光目的での評価ではない。足掛け5年を掛けて、新田義貞公の生誕の地から稲村ケ崎までの達成感のポイントである。