焼米五郎の平山城自然地形そのままの歴史を感じて。
焼米城址の特徴
焼米城は鎌倉時代に活躍した焼米五郎の居城です。
高さ五十八メートルの小山に築かれた平山城です。
二本の堀切は防衛目的ではなく区割り溝の可能性があります。
『蒙古襲来絵詞』絵一三、生の松原から鷹島に向かう竹崎季長の兵船に「やいこめの五郎」の名前があるが、この焼米五郎の居城とされる。蒙古襲来絵詞の「えたの又三郎ひていえ」も同町の江田の人物とされる。
| 名前 |
焼米城址 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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高さ五十八mの小山に築かれた村のセンター的平山城帯状の頂に三区画の平場、四本の堀切、小段がコンパクトに纏まっている但し平場の整地工事は充分でなく、自然地形を残したままである平場にある二本の堀切は防衛施設と言うより区割り溝の可能性がある普段は物見の場所として城主達が寛ぐ場所だったかもしれないしかし底山なので戦闘的な城ではなく麓の集落を取り込んだ防衛ラインの形成が不可欠な城だと推測される城は山の容姿から東向に造られていた所がその方向には僅か六百五十m先に坂田川を挟んでもう一つ城があるこの城は坂田城と呼ばれており、山の形や立地が焼米城と類似しているこの二つの城が同じ時代に存在していたのなら坂田城は焼米城の付け城と思われる焼米城城主と伝えられている焼米五郎は鎌倉時代の蒙古襲来の時に活躍した人物しかし米五郎城主説は疑問としている節もある。