雲龍山清潭寺で心を癒す。
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| 名前 |
清潭寺 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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雲龍山清潭寺(曹洞宗)。元々は在地勢力であった相良氏(または内田相模広とも)の菩提寺として建立された。文永元年(1264年)、菊池へ下向してきた宇野持直が菊池氏から苗字の隈部を与えられて家臣となり、この地に領地を得る。それに合わせて清潭寺が再興され、隈部氏代々の菩提寺となる。西の林の中には隈部氏のものと思われる五輪塔や宝篋印塔が残る。文明13年(1481年)、隈部忠直(親長)が清潭寺で「万句連歌」の会を催したり、孔子霊跡を設けて儒学を講じさせるなど文化の拠点ともなっていた。戦国時代末期(1578年頃)、隈部氏は同じ菊池氏の家老であった赤星氏を滅ぼし、菊池・山鹿一帯を領有。拠点を隈府に移す。その際に清潭寺も解体・移築された可能性が指摘されており、清潭寺は歴史の表舞台から消える。天正15年(1587年)、肥後国人一揆によって隈部氏は没落する。その時の「夜泣き石」の伝説が今に残る(後述)。江戸時代に再興され、現在の寺院は明治36年(1903年)に再建されたものになる。寺の庭前には隈部氏の有力家臣であった富田安芸守直戦ゆかりの逆修塔も立つ。所蔵品としては隈部親永の位牌のほか、石造の阿弥陀如来(本尊)や、十六羅漢像などが伝わる。▽「夜泣き石」の伝説境内に高さ52cmの自然石があり夜泣き石と呼ばれる。肥後国衆一揆の中心人物であった隈部親永は柳川の立花宗茂預りとなり放し討ちにより死亡した。当時3歳だった石見丸(親則)が母を恋しがって泣いた魂(声)がこの石に留まった、という伝説。もう1つの伝説として、隈部氏の拠点の一つである猿返城付近の小石を袖に挟んで持ち帰ったところ、その石が「かえろ、かえろ」と泣いた、というものもある。