静かな高台で心洗われる。
姉倉比売神社の特徴
姉倉比売神社の拝殿は新しく美しく、特別な雰囲気を放っています。
高台に位置し、圧巻の立山連峰を眺めることができる素晴らしい景観です。
七五三や初詣として多く訪れる人々に、静かな時間と心の洗濯を提供しています。
県内最古の神社と聞き参拝して来ました!駐車場も広く週末でも参拝しやすかったです😊朝乃山も参拝に来てるとのことです!!御朱印もゲットして✨呉羽近辺に来たときはまた参拝したいと思います。
御朱印を貰いにいきました。書き置きの御朱印でしたが対応は丁寧でとてもよかったです。
『延喜式神名帳』における越中国 婦負郡 姉倉比売神社に比定される延喜式内論社。論社としては他に富山市舟倉にある姉倉比売神社がある。因みにこちらの神社、前方後円墳の上に建っているそう(古墳の上に建つ神社って多いんだよなあ)。さらに因みに、2005年まで婦負郡という郡があったのですがその名の由来は姉倉比売神社であるとする説があります。と言うのも婦負は元々は売比(めい)と書かれていたそうで、、、まぁ、諸説あります。結構大きな神社で常夜燈も立派(常夜燈の大きさや多さは当時の神社の隆盛を知る基準になるです)。早朝に訪れましたが境内はよく手入れされていて清々し。きっと地域住民の崇敬篤いのでしょう。
朝早くに行くと、空気が良くて心の洗濯できます🎵
2024年2月6日に、初めて初詣にやって来ました。近くの看板を見て、近くにやってきたら行こう行こうと思っていました。呉羽の町の中の高台に、綺麗なお宮さんがあります。ナビでサポートしてもらって、たどり着けました。場所がわかったので、近くにやってきたらまたやって来よっと!
七五三や初詣に何度か訪れています人も多くなく雰囲気も素敵なのでとても良い感じですブランコや小さな遊具が何個か有って景色も風も爽やかな場所です石段から登る雰囲気も好きですね。
姉倉比賣命 天照皇大神 大己貴命武御名方主命 豊受大神延喜式内 正一位 越中最古の社江戸期には、旧地名(大竹野)から大竹大明神兼務社の神符を受けに。
終了間際に行ったのでうーんなんとも言えないです‥
1日に足元が良かったせいか沢山の人と車で、社に入る前車道から列が用事があったので出なをすことに。
| 名前 |
姉倉比売神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 電話番号 |
076-436-5459 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 9:00~17:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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姉倉比売神社(あねくらひめじんじゃ)。富山県富山市呉羽町。式内社(小)論社、旧村社。【祭神】姉倉比売大神資料によると、御祭神は姉倉比賣命。『肯構泉達録』によれば、船倉山の神だった姉倉比賣命は、能登の伊須流伎比古と夫婦だったが、伊須流伎比古は、能登媛と契りを交わしてしまった。怒った姉倉比賣は、一山の石を投げ尽くして、能登媛を攻撃した。大乱となったため、大己貴命が越路へ赴き、乱を鎮圧した。責任を問われた姉倉比賣は大竹野(小竹)に流され、布を織って貢物とし、婦女に紡織を教え、罪を償うことになった。姉倉比賣は娘たちに機織りを教え、村人たちには仕事に精を出すように励ましたので、誰からも慕われるようになったという。明るい歌声が村中にこだまし、姉倉比賣が機を織っていると蜆ヶ森の方から貝が蝶の姿になって飛んできて姉倉比賣の仕事を助けた、と伝わる。当社地はまさにこの小竹の地。姉倉比賣はその後許されて船倉山に帰った。その船倉の地にも当社と同名の神社があり、やはり式内論社になっている。あるいは、第10代崇神天皇の御代、姉倉比賣は当地の賊を征伐・統治し、後に農耕と養蚕を地元民に広め、特に機織の神として崇敬されたともいう。社伝によれば、第11代垂仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧に向かった。その際、御祭神の霊夢を受けた。そこで、陣所の四方に祠を建て、天神地祇を祀り、戦勝を祈願したところ、勝利を収めたという。報恩により社殿などが整備された、と考えられる。奈良時代の天平9年(737年)、仏像経典を納め、神仏混合が始まった。呉羽の宮とも、大竹大明神とも呼ばれるようになった。当社は戦国時代、上杉謙信から越中最古の社というとこから崇敬され、天文7年(1538年)には社領200石が寄進された。江戸時代前期の寛文元年(1661年)、落雷のため、多くの社殿、社宝、記録などが焼失した。明治になり、再建、再興された。現在、本殿は3棟並んだ形式で、向かって右が神明宮で、天照皇大神を祀り、左が田中社で、大己貴命・武御名方主命を祀っている。以前は、東に諏訪社、西に姉倉比賣神社、南に神明社、北に田中社と、境内の四方に社殿があったという。付近一帯の丘陵地の総称呉羽山は呉服山とも書き、古代のクレハトリ居住地と傳承されている。「『日出づる国』日本に対して日没する大陸の国を『日の暮れる国、クレ』と称した」。 「クレから渡来した機織技術者がクレノハタオリ、ちぢまってクレハトリ」となる。 「クレハトリの居住地の地名をクレハと称し、漢字で呉服と書き、やがて音読してゴフク」となり、「ゴフクには呉服・御服・五福などの当て字も」書かれるようになった。呉織(呉服、くれはとり)とは、上代、 漢織 あやはとり とともに中国の 呉 ご の国から渡来したと伝えられる織工。式内社「多久比礼志神社」について、多久比禮はすなわち栲布(たくぬの)で作った領巾の意であるから、むしろ織布の神を祀る当社こそがふさわしい、という説がある。式内社「多久比礼志神社」の論社は他に、市内塩の式内同名神社、黒瀬北町の日宮神社、五福の呉服神社がある。とあります。